馬越康彦の日記

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多幸感の謎(なぜ多幸感は訪れるのか)

預流果に到達しているといいながら(預流果になれば、「あっ、やっぱりこれ(仏法僧)が真実か」と分かり、この道を疑わなくなるのに)、密かに新約聖書ルカによる福音書を9月8日(火)に読み直し、あらためて永遠の命について思いを馳せていたら、3月24日(火)以来の多幸感にどっぷり浸ってしまった。この日の東京多摩東部は最高気温21度の雨の降る一日であった。南向きの雨戸を半分閉め、レースのカーテンをしていた。

14時55分にふと気づくと、ものすごく温かい心に取りつかれていて、絶対安全(どれほどの安全かといえば、例えば、一億人の飢えに苦しむ老若男女の人々の中に、たった一人分のパンが投げ入れられたとして、常識的にはパンを巡って腕力に頼る弱肉強食の、あるいはその逆に女・子供や年寄りを優先する配分、その他一切の諸々の価値基準に基づく熾烈な争いがあり、絶対自分には回ってこないはずのパンが、観自在菩薩様の奇蹟で、イエス・キリストがパンと魚をすべての人に分け与えたように、絶対に自分も食べられ、取り残されることのないというこれ以上ない至福の安全)の多幸感を味わった。すべてが愛に満ちていて、力が抜けて、頭の中で光が輝いているのがわかる。温かい居心地に頭の中は光に満ちていた。どれだけこの幸せは続くのだろうと思っていたが、16時13分を過ぎてもなお幸せであった。そのあと夕食に下へと降りて行ったので、多幸感は意識しなかったが、肩の力はその後しばらく抜けていた。
多幸感がいつ訪れるのか、本格的に研究している人もいるようなので、素人の私が口をはさむ問題ではないのだろうが、来たなというのは正確にわかる。私が具体的に何時何分と記すことができるのもそのおかげであり、この多幸感は一人の時だけでなく、家族に囲まれていても来るときにはやって来る。人に囲まれているときに多幸感がやってくると、奇蹟を起こしているような快感にとらわれるのも事実。早くこの幸せの仕組みが解明されるのを待ちたい。
9月30日(水)
14:00に昼寝をして14:50に目覚めたら、生まれ変わったみたいに部屋の中を光が差している。幸せ〜。いつもの多幸感に入ったのが分かった。
15:45ああ幸せだ〜
16:00痛みはなく、寒くも暑くもなく、イエスが復活した後、弟子たちのもとに入ってきて、「安かれ」と言われた時のように、まったき「安かれ」の状態にある。

10月5日(月)21:30 多幸感で溢れる。これだけ多幸感を味わうと、なぜ訪れるのかというよりも、これだけ多幸感の訪れた人の生涯はどうなるのか、あるいは死後どうなるのか?へと疑問点が変わっていく。私は3度「無我」を体験した。理屈の上では不還果に達している。死後梵天の世界に生まれるか、もう一度「無我」を体験して阿羅漢になるだろう。阿羅漢になった後、滅して没となったのちに、宇宙のコア(核)へ行き、今度は"I AM Who I AM."という主の近くへ行くか、あるいは多くの阿羅漢と同化して、この存在そのものになることが考えられる。
 * 梵天というのは、キリスト教の創造主のことらしい。つまり不還果となって、死後、浄居天(じょうごてん)となれば、それすなわち、創造主となることのようだ。

梵天という神さま

浄居天〜色界の隠し部屋?

以下多幸感についての諸説

1. 幸せの先取り説 ――100歳を超える長寿の老人に多幸感を覚える研究結果(NHKクローズアップ現代等)が報告されていることから、30代、40代、50代で多幸感に溢れた生活を送るのは、幸せの先取りをしているのだという考え。


2. 相当説 ――若くして多幸感を訴える者が、悟りを開いたとか、聖者の流れに預かったとか唱えている者が多いので、聖者になると多幸感を覚えるのは、その人にとって相当な結果であるとするのが相当説の考え。


3. 色界第三禅説 ――白い光に包まれて敵味方関係なく幸せになってしまえというのが、色界第三禅の幸せに満ち溢れた境地に似ていることから、多幸感を覚えるというのは、まだ禅でいうところの色界第三禅の段階ではないかという考え。


4. 預流果に覚った者が、輪廻転生先の天界の幸せに現世(人界)で触れた説  ――人間が感じる幸福感を「水滴」とするなら、六欲界(天界)の幸福感は「大海」と言われるので、預流果に入った者が、輪廻転生先である天界の幸福を人間の姿で味わうときの表現はさながら、白い光に包まれ敵味方関係なく幸せになってしまえという、あの幸せの横溢状態を最もよく説明しているのではないかとする考え。

天界の悩み  天界の悩み?

預流果    預流果〜人間と天界を行き来する仏道修行者


いずれにしても多幸感を覚えている当人にとっては、これ以上幸せで楽な境地はないので、多幸感に満たされるというのは、その時点で世界が止まってしまう(これ以上進歩していかないんだ)という否定的な捉え方をする人もいる。また、これはその人にとって、サルベーション(救い)が来ているのだという捉え方をする人もいる。


私は最初、「多幸感」という言葉の存在そのものさえ知らなかった。世間が「多幸感」にちやほやと色目を使っているとき、私は冷ややかな視線を送っていた(というか、そんなもの知らなかったのだ)。ただ、白い光に頭が包まれて、これ以上ない絶対安全の幸せを何度か味わった後に、〝白い光、幸せ、絶食”などというキーワードでググった結果たどり着いたのが「悟りを開く方法」というサイトであった。
[memo] 悟りを開く方法 - RinGoon POP!!
私はそこではじめて自分の味わっているのが「単なる幸せ」ではなく、「多幸感」と呼ばれるもので、それが瞑想の極致であると知ったのである。もっとも断っておかねばならないが、私は梵我一如に到達した際も、白い光に包まれた際も、瞑想はしていないということである。ごくごく自然体で達していたのである。私が多幸感を味わう時はいつも自然体で、瞑想をしていない。多幸感とは望んでその状態になるのではなく、多幸感のほうからやって来る、つまり((向こうから))「訪れる」という方が妥当なのである。

2016.12.19*今から考えると多幸感(禅定)が向こうからやってくるというのは、禅定には入るのだが、自分の方から第何禅定に入りますというところまでコントロールできていない、つまり清浄行の生活を送っていると、勝手に禅定に入ってしまうが、自分の方から指定して入ることはできていないということを意味している。

多幸感を限られた人の特権とせず、すべての人が多幸感を味わえるよう、「多幸感」と「単なる幸せいっぱいの幸福感」がどう違うのか、責任をもって伝えていかなければならないと思う。特権としておくと、味わえない人からは羨望と妬みの視線で歪んだ形で捉えられる恐れがあるからだ。こんなにも奇蹟的に白い光に包まれる喜びを一握りの人のものとしておくのは勿体ないではないか。
無我(非我)の境地に達する。ニルヴァーナへ行ってきた。梵我一如を体験した。 - 馬越康彦の日記
先週の土曜日(12月12日)、「過去世」をググっていたら、Rickey☆という人のブログに出会った。スピリチュアル・ヒーリングというのを初めて聞いた。とてもためになるブログなので――特に私はいま腕、肩、手、足を原因不明の病でやられているので――病について興味深い見識の個所のリンクを貼っておく。
車いすがいらなくなった人。 | 見えない世界の本当の事。
私の病は現代医学では治らない病である(認識することもできない痛みである)。こうした方(Rickey☆さんのような方)に診ていただけたら幸いである。この方は現代版イエス・キリストかと思ってしまった。世の中は広い。現代医学ばかりが人を治す唯一の術ではないと改めて思い知らされた。むしろ現代医学では治らない病のほうがほとんどなのだ。

2016.12.19*今振り返ると一年前はスピリチュアル・ヒーリングを信じていたのかという感じ。私は毎日自分の老いも、生きとし生けるものが老いていくのも避けられないものとみている。私は老いを乗り越えていません。生きとし生けるものも老いを乗り越えていません。というふうに。
私は病を乗り越えていません。生きとし生けるものも病を乗り越えていません。

今日も我が家の前の道では子供たちが、「もう、いいかい?」「まーだだよ〜」などとやっているが、この光景を何回繰り返したのか我々は知らないようで知っている。もう何億兆万回も繰り返しているのに気づかない?
 六道輪廻について  六道輪廻
 輪廻の恐ろしさ   仏教が説く輪廻はおそろしい

「人が死んで生まれ変わる間に流した涙の量は、海の量よりも多い」
「指先につまんだ土を現世とするならば、人の輪廻は、この地上にある全ての土よりも多い」
すごい数、輪廻転生を繰り返しているのだね。ああ、聖者の流れに預かっていてよかった。心からほっとするひと時である。


お釈迦さまがある日、ご自分の親指の爪の上に土のひとつまみを乗せて、比丘達に問いました。「比丘達よ。私の爪の上にある土と大地の土ではどちらが多いですか」。比丘達は答えました。「お釈迦さまの爪に乗せられた土は大地の土とは比べられないほどわずかなものです。大地の土の量は計り知れないほど多いものです」。それに対して、お釈迦さまはおっしゃいました。「比丘達よ。修行して、預流果のレベルに悟った人が捨てた業の量は、大地の土の量に等しい。まだ残っている業は、私の爪の上にある土の量のようにわずかです」。



平成28年3月11日 アルボムッレ・スマナサーラ長老の『沙門果経』という文庫本(サンガ文庫)を初めて読んで、私の多幸感は第三禅定に入った強烈な喜びであることを理解する。諸説の中の3. 『色界第三禅説』が適合するようだ。
以下同書より抜粋
〝光の玉(魂)が、自分の身体の中に入ってきた」とか「巨大な光に自分が包まれて溶けてしまった」という神秘体験を語る人もいるのです。この場合は第三禅定に似ています。ほとんどの人は、サマーディ状態を光として認識するのです。中から光が外へ出ても、外から来た光に包まれても、修行者は並々ならぬ喜びを感じるのです。”
〝その人々の神秘体験は、嘘ではありません。実際に瞑想して禅定に入り、究極の喜びを感じているのです。一般人には針ほども、そういう喜びを感じることはできませんから、彼らがその神秘体験について語る場合には、頭を働かせて語っているのです。”
〝仏教では「同じ禅定に繰り返し入って、いとも簡単に入れるようになりなさい」と言います。また、禅定の領域を延ばすという訓練もあるのです。回数を重ねて、同じ禅定にサッと入れるように訓練するのです。一度入っただけで、二度と入ることはできない人もいるかもしれません。その場合に残るのは「いいことを経験した」という充実感だけです。ほとんどの人は、一回でもその禅定に入ったら、その充実感でほぼ一生過ごせます。たった一回だけでも禅定体験があれば、一生それを忘れないのです。禅定の経験はそれくらい強烈な喜びなのです。
しかし仏教は、そこで終わらないように、親切に注意するのです。強烈な経験を得た人が、死ぬまでそれを忘れられない気持ちは分かります。禅定の経験は強烈なだけではなく、喜・楽などに満たされることで心は清らかになるのです。でも日常生活に戻ればいろいろな苦しみや問題があり、あの喜悦感はあとかたもなく消えることにもなります。それはつまり「禅定がなくなった」ということです。しかし、経験を得た人は、「かつてすごい経験を得た」「喜悦感を感じた」と自慢の気持ちを抱くだけで、今の心が汚れていることに疑問を抱かないという状態に陥りがちです。禅定を光などの現象で説明せず、喜・楽などの心理要素で説かれているのは、修行者が禅定を壊すことなく、持ち続けられるようにとの配慮からなのです。”
慈悲の瞑想から近行定に入りました【禅定について】 - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
瞑想の不思議な効果 尺調整(しゃくちょうせい)/ウェブリブログ



瞑想していたわけではないが、生活している中でくしくも幾度となくサマーディ状態に達した私は、輪廻転生を乗り越えて解脱するために、智慧の開発に挑戦する観察瞑想に入ることになる。昨年の暮れからヴィパッサナー瞑想を始めたというのは、まさに敷かれたレールを歩んでいるだけのことなのだ。このまま進むと、名色分離智による認識の次に、六神通を使いこなせることになるのだが、スマナサーラ長老によると、現代ではフルコースで超能力を実践する者がいないということなので、私も、自分の過去世をたどる宿命通と他人や他の生き物の過去および将来を知る天眼通と、四聖諦をありのままに知り、修行の完遂を知る漏尽通の三明を得ることに努めようと思う。もっとも私はまだ在家の身で、沙門(出家修行者)ではなく、沙門の果報を受けるわけにはいかない。しかし在家といっても、ほとんど沙門同然なのだから、まったく得られないというものでもないように思う。
白い光に包まれ多幸感を得る経験のほかにも、瞼を閉じると瞼の上から神々しくまばゆい光が静かに目の中で溢れだすことも何度か体験している(目を開けないとあまりの明るさゆえにいられない)。またこれらとは別に3度ほど、無我の境地にも至っている(梵我一如を経験したと私自身は語っている)。



再びサンガ文庫の『沙門果経』より抜粋
〝インドで当時の修行者が目指していた「究極の境地」は、サマーディ瞑想で得られる最高の心境のことでした。「梵我一如」「永遠の魂」「究極の喜び」などと他宗教で言っているのも、このサマーディ瞑想で得られた体験です。かなりレベルの高い瞑想で、これを体験できたのは修行者の中でもごく一部の仙人といわれた人たちです。しかし、お釈迦様はそれをとびきりの究極体験としてではなく、修行で得られる一つの過程として整理してしまうのです。”

喜悦感と途轍もなく楽だという感じに体が包まれると、この悦びは常住である。この悦びは永遠である。これは常恒である。これは純一である。これは不滅の性のものである。これは生ぜず、老いず、死なず、滅びず、生起しない。これよりも以上に他の出離はあり得ないと思われるのだ。


〝ご飯を食べた場合は、たった五分間だけかもしれませんけど、冥想の達人になってくると十分でも二十分でも、お釈迦様なら一日でも二日でも、みじんも苦しみが絡んでいない幸福を感じていますよ。お釈迦様は、「コーサラ国王でさえ、たった一秒でも、純粋な幸福を感じたことがあるのかい?」というふうに、ずいぶん力強く語ったんですね。”

冥想に成功するポイント(3)存在欲を放っておく - ブッダ ラボ - Buddha Laboratoryより引用

私が初めて光に包まれ多幸感を味わったときは、まる1日どっぷりつかっていたものだ。お釈迦様は7日間ほとんど息をせずに滅尽定に入っていらっしゃった。凄い!