馬越康彦の日記

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光る者

命が限られた時間に放り込まれたとき、輝くことがある。植物が光を求めるように、人もまた輝く者を求める。輝きはたいてい瞬時の事であるが、この瞬時という時間の感覚は、その時々で異なっていて、人間の命は大体短いものだから、輝く時もまた短く感じられるといってしまえばそれまでなのだが、確かに輝く人は出てくる。太陽光が生命体にとって不可欠なように、人を照らす輝く人もまた人にとっては欠かせない存在である。
およそ光と闇が分かれているように、輝く人と輝かない人もまた同時に存在する。いかなる尺度もこの二者・二極には通じない。つまり、光るのが偉いとか、光るのが一部の人の特権であるとか、容易く論じきることはできない。私もあらゆる倫理的、道徳的、存在論的意義を光る者とそうでない者との間に置こうと試みたが、失敗している。光と闇は運命的なものなのかもしれない。
このところ私は外へ出てみるのだが、もう何年も光る者には出会っていない(というか、光を意識するようになってからの話である。あくまで)。私の失敗は光る者に幸福的意義を与えようと試みたことだ。光る者を見ていないとうっかり話したら、あなたが言うように不幸な者ばかりではないとお叱りを受けた。光らないと不幸だとか失敗だとかそういうことを言いたかったわけではないのだが、光と闇については人はそれぞれに何らかの価値基準を置いているようなので、うっかりそれに触れると思わぬ騒動になる。
前回身体に宿った命について、それが神からの借り物だと述べた。借りている間、あたかも自己所有しているような錯覚を覚える。が、借り物を返す時、人は神、もしくは神意に通じる。そして生涯を終える。借り物に宿っていた我々はどうなるのか?我々は借り物を返した後、借り物は土(あるいは何か)にかえるのだが、我々自身はどこへ行くのだろうか?ここから先は、まだ体験していないのでよくわからないのが正直な意見だ。人として身体を借りたわけだから、返す時が来ることはわかる。人の存在と、神の存在は否定したくても否定できない。なぜなら知ってしまったから。だが、身体を返した後に向かう世界がどこなのかはわからない。
光るときはひどく執着しているように見える。何かに燃えているようだ。ほかの事には脇目を振らず、一心不乱に何かを成し遂げようとする。その人が執着しているそのことが、その人の本能のようにみられる。その人も食事をするし、およそ人間的なことをする。だが、何かの役割を持たされているようだ。それを実行するように時は急く。
暗い者は神から遠ざかる一切のもの。個体であることが神から遠いことであるとするならば、いつまでたっても個体としての自分の欲望の充足のみにしか満足を見いだせないすべてのものは闇である。そこには私しかない。私、私、私。I me mine,I me mine,I me mine.中には歯を食いしばって神から遠ざかろうとする愚か者もいる。その者は軛を抱えながら、みなと同じ船には乗ろうとしない。所有という言葉がこの人たちにはかけがえのない言葉なのだ。所有はカイン。人類初の殺人者である。所有すると神から遠ざかり、煩悩からはますます離れられなくなる。所有。それは大きな罪である。所有しないと安心できない人は、常に睡眠不足に悩まされる。所有にもっぱらな人は、自分の身体も心も自分の所有物であると信じて疑わない。