馬越康彦の日記

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人の痛みを自分の痛みとすること

人の痛みを自分の痛みとする。それは私にとって人の痛みを自分の痛みのようにとらえる(考える)ことではなく、私の身内の痛みが本当に私の痛みとなってしまうという驚くべき事態となって私に降りかかってきたことを意味する。されど何を意味しているのか、神意がどこにあるのかはさっぱりわからない。痛みの持ち主は私の父。同じ症状が出始めたのが昨年秋の11月9日(日)。11月7日に父が咳をし始めた。風邪か何かだろうと思っていた。遅れること2日で私も咳をし始めた。最初は風邪がうつったのだと考えていた。陰湿な咳で、父方は喘息の家系であるので私にも出たのかと思って内科・耳鼻咽喉科にかかるも異常なし。咳止めの薬を飲んでも一向に改善されず、どうしてこんな病気にかかってしまったのだろうと散々苦しんで、それでもたぶん風邪がうつったのだろうと考え、耐え抜いた。咳喘息のような酷い咳がずっと続き、ようやくおさまったのが12月に入ってから。前後して父の咳もおさまった(この間母は全く咳をせず)。
次に父の痛みが私の痛みとなったのは12月4日(木)。前日窓ガラスをはじめ、大掃除をしたので、普段動かさない筋肉を動かしたからだろうと勝手に思い込んでいた。右腕の上腕部に痛みを覚え、寝ていても痛さで夜中に目が覚めるほどであった。整形外科でレントゲン写真をとっても異常なし。鎮痛剤を処方してもらったが、まったく効果なし。地獄のような痛さに苦しんで、漢方に縋ったが、これも効果なし。この段階でも、これはまだ自分の病だと考えていた。
そろそろ何かの呪術をかけられているのではないかと疑いだしたのが、2015年1月23日(金)。
父の病の痛さが自分に表れているという確証を得たのが、昨日(2015年1月29日)。父が自転車で転倒して胸を打ったのを知らなかった私の胸が痛み、また痛みが増えたなと顔をしかめていたのだが、母から「お父さん、また自転車で転倒して胸を打ったんだって」という話を聞かされて、昨年秋以来の疑いが確信へと変わった。父の痛みが私の痛みとなっているのだ。なぜ人(人といっても自分の親だけれど)の痛みが自分の痛みとなるのか、そのわけはわからない。どういう神意が働いているのかも当然わからない。したがってどう対処すればいいのかもわからない。脳も痛み、全身の神経が痛んでいる。この病はおそらく癒えないだろう。
なんとなく私にはこの病に思い当たる節がある。私が観自在菩薩様から神になるように要請されて、私はそれを断って、この世界に帰還しえたと喜んでいたのが、自著『ホモサピエンスの意志への個人的アプローチ』を記した昨年1月、もしくはそれ以前のこと。神になるというのはおそらく人々のあらゆる苦しみを身に背負うことだろうなと考え、拒否していたのだ。やはり逃れられないのか?神になることなど何の魅力もない。
私は今まで自分の身体の痛みと他人の身体の痛みを分けて考えていた。ところが父の身体の痛みが自分の身体の痛みとなっていることを知って、自分の身体という考え方を捨てるように傾いている。今までは病は自分の身体のケアを怠ったその人の自己責任と考えふんぞり返っていたのだが、他人の痛みが自分の痛みとなって、自分が頑張ればとか自分が節制すればといった自他を峻別する考えを捨てた。病はそれを得た本人にとってもなぜ得たのか理解できないものなのだから、この肉体という神様が仮の形で自己所有することを認めてくださったものにそれほどこだわってみても意味はない。とにかく肉体は仮の所有物であり、レンタル品なのだ。いくらレンタル品に磨きをかけ、ブラッシュアップしても何の意味もない。
私は最悪の場合、心もまたレンタル品なのではないかと危惧している。自分の肉体、自分の肉体と考えていたものがレンタル品だったのなら、心だってレンタル品かもしれない。悟りを啓いたなどと云って得意がっていたものの、この心、この魂、この私のものだと思い込んでいた私の倫理、道徳、感情がすべてレンタル品だとしたら、意志などと云うものはなく、業などと云うものもないのかもしれない。身体が仮のもの、レンタル品だと知った以上、心がレンタル品でない可能性などありはしない。だとしたら、私というものなどないのかもしれない。私は私が勝手に私だと考えているだけで、私などと云う所有観念は通じないのかもしれないのだ。
因果というものがあるようだけれどよくわからないなと考えたのは、個体というものが真っ向から(心も体も)否定されて、はじめて自分を襲う因果律から解放されたからかもしれない。この世にもあの世にも、六道にも私というものはない。すべて、仮、すべてレンタル。
私の語ることは私という身体を使った人体実験の結果である。もしそこに何か意味があるとするならば、私の身体も皆さんの身体も同じく現世での借り物だという共通点を持つことから演繹されるところのもつ普遍性なるものにあるのだ。
この世のものは一切が偏りに満ちている。偏っていないものなどどこにもないし、誰にもない。そうしたすべての総和が神と云われるものなのかもしれない。神はすべてのものに宿りながら、すべてのものは神ではない。我々はあらゆるもの、あらゆる人に神を見出すが、それらはそれ単体では神ではない。富、病、正義、人種などの偏在がなぜ解消されないのか?おそらく神が自分の分身としてすべてのもののうちに宿ることをされたから、すべてのものは同じ神から生じたという意味で全く同じものであり、すべてが分身であり、トータルして初めて中庸(EVEN)になる故に、すべての分身はすべて偏った存在(個体)なのである。その偏りを測る尺度は世の中に腐るほどあり、それが道徳であったり、数であったりするだけのことで、いっさいは偏っている。偏りは悪魔といわれるものである。神がすべてのもののうちに分身としてありながら、すべての個体は悪なのである。だから総和としての神を信仰するのは正しい。悪はすべての個体そのものだからだ。悪から解放され、神を見る時――それは個体としての命を失う時である。個を失う時初めて全体の中に埋没し、全体(神)を知ることができる。その時全体への慈愛に満たされ、途轍もない安らぎを覚える。
偏りをもたぬものは神様だけであり、それは東洋的、あるいは仏教の言うところの煩悩から解放された涅槃と呼ばれるものである。神を目指すいっさいのものはすべて同じものを見ているのであって、キリスト教的とかイスラム教的とか、ヒンズー教的とか、仏教的(その他もろもろの**的)という字面に悩まされてはいけない。神は一つである。それを解釈する人たちがさまざまであったにすぎない。みな同じ奇蹟を見ているし、世界中が同じ奇蹟で満ち溢れている。だから、西洋的、東洋的な神の姿に騙されてはいけない。神とは心である。偶像にとらわれるな。すべての偶像は偶像として正しいが、それは神の全体像ではなく、断面にすぎない。信仰を忘れてはならない。
奇蹟は信仰を生み、信仰は奇蹟をもたらす。私は奇蹟を実際に味わったから、今日の信仰があるのであって、「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャ同様に、もう信仰から外れることはない。これは確信である。奇蹟を見るものは幸いなのだ。