馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

自分の人生を肯定する術

自分の人生を肯定するために必要なことは、気持ちが何物にも執着しないことである。何物にも執着しないということは、一見すると、個体としては死んでしまっているかのようなイメージを与える。何事にも拘泥しないのだから、そういう人にとっては世事などどうでもよいのだと人は考えるかもしれない。事実世捨て人の中には世事にとらわれない人がいるようだ。私も新聞に目を通さなくなって久しい。でも、そうした世捨て人も何らかの形で世界と接点を持っているものである。譬えとしてはあまりにも恐れ多いので、こんなことを述べていいのかどうか躊躇われるが、一説には、観自在菩薩様は人間界と接点を持っているが故に仏にはなっていないなどと云われるようである。
何故か?すすんでそうしているというのがあるが、実は悟りの次には慈愛が来るはめになっているからである。どう説明したらよいだろう?
執着しないというのは、難しいことのように思われるが、存外できるものである。問題は執着心を失うと、恐ろしい虚に襲われることなのだ。執着を失うとさぞ楽だろうと人は思うだろうけれど、問題はこの虚である。こいつは命を蝕もうとしてくる。執着を失うというのは境を失うこと。他人と自分との境を一切なくしてしまうわけだから、自分を維持するための浸透圧が、境を失う故にすべてのものが流れ込んでくる原理となって作用する。自分と他人を区別するものがなくなるとき、世界を自分の中に見出す。それは失うこと故に、無となることであるのだが、すべてを許容する慈愛がうまれる瞬間でもある。この辺の事情はそれを体験した者でなければわからないし、いっそヘーゲルにでももう一度精神現象学を著してもらって、どうして宗教が発生するのかを人々に解き明かさなければなるまい。ヘーゲルは思惟とか追思惟によって精神現象学を書き上げたのではなく、神を体験したから書き上げたのである。執着を失ったとき、人は死の危機と向き合う。私の今季の冬は、この虚との戦いであった。そしてどういうわけか、健康そのものであった私は病を得た。腕が痛み、痺れ、やがては全身の神経が連続して痛みに襲われるという、味わったことのない苦しみを味わっている。
ところが健康な時にはわからなかった闘病の意味を、病を得て理解することになった。昨年の夏から秋、悟りを啓いた時にはすがすがしく、大気が青々とどこまでも晴れ渡り、多幸感を得ることができたのだが、昨年暮れからの闘病は私に神を知らしめた。執着の中でも命に対する執着をなくす(あきらめる)時、だれでも神、神意に達することができる。命とは個体の身体の中に他の個体の栄養を取り入れ、排泄することである。その行為を何歳まで続けられるかが、その個体の寿命である。摂取と排泄のバランスの上に命は成立している。そんな説教じみたことはともかく、闘病の果てに、人間は神を知る。悟りの時には白い光が頭の中で渦巻くのだが、神を知るときには閉じた瞼の上から途方もない光を感じることになる。
あきらめは受容へとつながり、すべてを神の手にゆだねることができる。それは多幸感とはまた違う幸せである。長い闘いから解放される喜びでもあり、この喜びは誰でも味わうことができる。神が与えた命を、人間という個体は自分の所有物であるかのように扱い、性欲が満たされなければ不平を言い、食欲が満たされなくても不平を言い、名誉欲が満たされなくても不平を言うという実にわがまま勝手な所有行為をしているわけだが、結局最期は神に返すことになり、その時すべてを赦し、救われる。こうして人生はできている。
よし、もう一度同じ人生を!といって、自分の病、自分の不幸、自分の喜び、これらが一切まったく同じように繰り返されても、なおすべてを肯定することを可能とするためには、執着から離れ、慈愛へと至ることである。