馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

徒然なるままに

人間と云うのは外界と接触しては、災いの種を家庭に持ち込むものらしい。自分一人で満足できない存在、周りからちやほやされたい存在、それが人間の氏素性のようだ。心が落ち着くことがなく、常に四方八方に気が散じ、他人との比較の中でしか生きられない愚かな存在。こうした存在にいくら心を虚にしろと云っても容易には理解できないものらしい。お釈迦様が悟りを啓いたのちに、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」と思われたのは至極当然。いつまでたっても満足することを知らず、功績を重ねることばかりに腐心する存在、それが人間だ。軍師官兵衛だろうが、石田三成だろうが、徳川家康だろうが、みな同じ。まったく魂が満たされず、欲求不満な状態ばかり。成仏できません。
私はグーグルで、自分の顔をつくる人間を紹介した。人間と云うのは顔をつくりたがる。お世辞にも「いい顔」とは言えないが、私は今の顔に満足している。顔が今あるようになったのだと得心している。決していい顔ではないが、目が小さくて細くてどうしようもない顔だけれど、これが自分の顔なんだと思っている。
通勤途上で、下り線を見て、会社を休み、下りラインに乗り換えて、自然に戻れればどれだけ魂が救われるだろうと思ったことは一度や二度ではあるまい。忙しいとか忙しないとは心を失っている状態だ。私たちの体は過労死する寸前だし、魂もこの資本主義とは相容れないものなのだ。魂は救いを求める。自然の中には魂が癒される何かがある。忙しい人はどれだけ金を稼いでも幸せな家庭を築けない。いくら体裁を繕ってみても、本人の心は正直だ。満足できないから他所の女に手を出してみたり、パワハラをしてみたり。地位を築いてみたり、権力闘争をしてみたり。心落ち着く暇がないし、そういう人たちの心や魂は落ち着くことを知らないようにできているのだから、始末におえない。だがそんな人も含めて、我々の魂は、天上界にいた頃の記憶を辿って、自然の中にその居心地の良さを知らず知らずのうちに見出す。都会に何を求めても無駄だ。そこにあるのは時代の最先端とか、喧噪ばかりだ。そんなものの中では魂は救済されない。
「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」、こんなことも人間にはわからない。いつまでたっても涅槃に至らないわけだ。
因果について思い巡らす者には悟りを啓くチャンスがあるかもなどと、ちょっと奮発して書いてしまったけれど、結局悟りを啓ける人間はそのように生まれついているのだと確信。なぜ私にできて、彼らにできないのか不思議でしょうがない。でも、そのように生まれついてしまっているんだね。悟りを啓けぬ人たちの行動は、精子と同じ。我先に、我先にと卵子を目指してまっしぐら。そのようにできてしまっているのだから、それを変えることは不可能。充たされる性行為はない。人間の性行為は充たされる訳がない。充たされないから種族繁栄に貢献している。したがって充たされる異性とか、満たされる性行為はない。常に欲求不満だ。人間だけではない。すべての生き物が満足することを知らないように運命づけられている。衆生は六道(天道・人間道・修羅道畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻する。
誰にも褒められないと、自分で自分を褒めたくなるようだ。
輪廻転生から解脱し、業からも解脱した。羨ましいと思うだろうか?とんでもない。気持ちを語って聞かせる仲間一人おらず、輪廻や業の中に浸かっている畜生や人間に悩まされる日々だ。でも、まあよし。解脱した今、何も望むものはない。体の不具合はない。酒は2日間やまっている。体は老いを知らず、髪はむしろ若返っている。晴々した気分は白い光に包まれ多幸感に浸っている時と同じだが、行き場がない。一切の業をつくらぬことが理想の今、何を目指せばいいのだろう?観自在菩薩様にお願いして、うるさいものを遠ざける術を手にした。富や名声は必要ない。体は健康であってほしい。
善いことが起きているうち、結果を善いことに還元していく(因とする)ことが大事。
アルコールが過ぎると、つまらないことに腹が立つ。
体の調子がいいと、人を幸せにするように心が働く。
良き記憶と美しい時はリンクする。