馬越康彦の日記

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生理哲学6(宗教の交差点。因果応報について)

悟りを啓き輪廻転生の枠組みから解脱し、絶対幸福へと達することになってから、今まで受けてきた人間たちによる不正に対して、倍返ししようとか復讐しようという執着心から解放された。そういう復讐心から解放され、逆にそういう者たちからこれ以上不幸になる人々を出してはなるまいという救いの気持ちへと変わっている。アレクサンドル・デュマの「モンテクリスト伯」からも大いに飛翔し、なぜキリストの映画「ベン・ハー(a tale of the Christ)」に胸のすく思いを抱いたのかわかるようになった。自分が輪廻転生から外れ、絶対幸福へ達するのみとなった今、復讐心からも遠く離れたところに心が到達したからである。ベン・ハーの気持ちよさは、キリストが罪びとたちを救う彼の磔刑を神の御業として成し遂げることにより、らい病からジュダの家族が救われるあの魂の荘厳さにあるのだが、あの気高い感情をそっくりそのまま自分の中に見出すことができるというのは、観自在菩薩様を信仰する自分にとっては、宗教は異なっていても交差するものだと思える重大な発見だ。

多くの人たちは不正に対して復讐することで、怒りの矛を収める。汝の敵を愛する者は稀だ。だが、多幸感は違う。あの幸福感は敵・味方の区別なく人類全体に作用する。何とも不思議な縁だ。敵を愛せなどと云われるから躊躇してしまう。訳が分からない。結局多幸感がすべてのポイントとなる。白い光に包まれ多幸感を味わえる人が、敵を愛すことの意味を知り、悟りを啓くことができる。字義通りに敵を愛そうとしても無理だ。よく分からないし上手くいかない。そうではなく結果として敵を愛することになる多幸感を得ることに目標を置いたほうがいい。方法は色々だろう。私の場合は両親が昨年、同時期に入院し、それまでほったらかしにしていた観自在菩薩様を崇めることが、多幸感を得ることにつながった。お縋りするより他に手はなかったのである。今でも困ったことは、すべて観自在菩薩様にお任せしてしまっている。人智を超えることはすべてお任せしてしまっている。後悔はしない。そのおかげで、解脱できたのだから。これ以上望むことはない。もう十二分に満足である。あとは神界へ行くだけだ(どうやら涅槃へ赴くようだ)。

人間のつくった法律に苦しめられた人間が、仏様の道理によって見事に救われる。仏様は必ず我々の行いを見ていらっしゃる。そのうえで因果応報を課していらっしゃる。やましいことがなければ、安心して生きるがいい。生きることそのものが殺生という罪に繋がってしまうのだが、悟りを早く啓きたければ、無用な殺生は避け、仏様に恥じない生活を送ることだ。仏法は法律よりはるかに古く、宇宙の始まりからある根源的な定めだ。仏法に恥じなければ、生きているうちに悟りを啓くことができるかもしれない。それすなわち次のごとし。子供から大人へ成長するに従い、人間は様々な悪事に手を染める。大なり小なり、また数の差こそあれど、手を染めざるを得ない。性の目覚めそのものが悪事の始まりだ。人生の前半はそれ(悪事)を為すことに使われる。つまり因の時代である。ところがここで為した悪事が人生の後半に結果となって返ってくる。つまり果の時代である。大抵の人の人生はここで終結する。すなわち因果応報。ところが稀に、悪事にほとんど手を染めることなく成長する者がいる。その者は、因果応報を通り越して、あるいは因果応報を終えて、悟りを啓く機会を得る。早く悟りを啓いた者は、早く次のステージへと駒を進める(有余涅槃にたどりつく)。解脱への道が用意されている。すべてを知ることができる(能く人生を知る者は、必ず因果について正しい理解の萌芽を有している)。

今はあなたたちが法律とやらの番人であり、運用者であるが、私はあなたたちの命の審判者となる。遍く見る・見た自在者のもとではすべてが筒抜けである。法律によって人を罪人へ陥れようと画策したすべての罪があなたたちを襲う。なぜなら因果応報という掟が支配しているからである。これより逃れる術はない。だから私は無益な倍返しをしない。必ず因果応報によって罰せられることをよく承知しているからである。もちろん善因楽果もそのように作用する。ただ強調しておきたいのは、悟りを啓くとは因中有果より離れること、因果律の外へ置かれることを意味しているということである。


*「ベン・ハー」同様に魂の救いという意味では、菊池寛著「恩讐の彼方に」にも通じるものがある。

*2 因果応報を人の手に行わしめたのが、大デュマ著「モンテクリスト伯」である。

*3 頭が剃刀のように切れても、権力の中に身を置く者には悟りは訪れない。八正道を正しく理解すること!(字面を読むのではなく、自分の体験として納得すること。自分の体験の解釈手段として正しく用いること)

*4 心を正しく保ち、知識を正しいことに使わなければ、悟りは啓けない。とにかく清廉潔白であれ!人をいじめたり、泣かせたり、殺してしまう者には悪因苦果どころか地獄しか待っていない。いくら良いことをしても駄目である。良いことをするよりも悪事を働かないことの方がはるかに難しいからである。「俺も人並みに悪いことはやった」だって!?人並みの悪さとはかなりの悪事である!私は思い出すことができるほどしか悪事に手を染めていない。「いい人なんだけど」(馬鹿なんだよね)なんて戯言に耳を傾けてはいけない。「いい人」であるのは最低限の条件だ。いくら損をしても「いい人」でいるべきだ。迷うな。右の頬を打たれたら、左の頬を出すぐらいの人間でなければいけない。普通はここで迷いが生じる。本当なのかなと誰でも疑問に思う。思い切って実践してみることだ。そのうち人はあなたを打たなく(正確には打てなく)なる。これはいいかげんな教えなどではなく、本当の教えなのである(私は小学生の時これを実践し救われたが、長い間この体験を忘れ、ついに大学生や社会人になってからひどいいじめを受けた)。これらを実践しきらないから、いじめられる。輪廻転生から外れることができない。キリスト教において「自殺」がなぜ悪いことであるのか、よく考えをめぐらせた方がいい。危ないと思ったら、悪事に加担してその場を切り抜けるのではなく、思い切って逃げてしまえ(逃げ道を確保するというのは卑怯でも、間違ってもいない)。一緒になっていじめに加担したり、見てみぬふりをしても、悪事を働いているのと五十歩、百歩である。あなたがたを待っているのは地獄だ。なにより、一生良心の呵責に苦しむ。良心とはあなた方を苦しめるため、わずかな例外者を除き、誰にでも付与された天賦である。見てみぬふりをして逃げるくらいなら、強くて正しいと思われる者にチクった方がましだ。どうせあなたがたは、悪鬼たちの復讐を恐れチクることもできないだろうから。チクる者は、私の言うとおりに復讐されるだろう。だが、最後に解脱という救いが待っている。因果は恐ろしい呪いだ。光あるうち、光の中を歩め!

*5 十事正見には、atthi mātā(母を敬う行為に良い結果があるなど)、atthi pitā (父を敬う行為に良い結果があるなど)があることから、出家、在家の観念にそれほどとらわれずとも好いと思われる。「十戒」を守れなどといったが、心の在り様だけを教える仏教に身を置くことが一番楽である。有余涅槃に至ると、この上なく楽であり、望むことがなくなる(入滅するまでいかに体をコントロールするかだけの世界になる)。