馬越康彦の日記

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生理哲学7 闘病の意味と不幸の意味

人類について。人(ホモ・サピエンス)。彼らがなぜ、その人種、その民族、その国家、その階級に生まれるべくして生まれついてしまうのかがよく分かる。なぜなら彼らは悟りを啓けないからだ。だから今述べた、なぜ?という疑問にも、彼らは回答を見つけられない。私は見つけた。彼らが同じ人種、同じ民族、同じ国家、同じ階級に生まれる理由は業にある。およそ彼らは何度生まれ変わっても同じことしか為し得ないから、まったく同じ輪廻転生をすることになる。業とは残酷なほど正確な宇宙という壮大な仕掛けの歯車で、すべての原因はすべての結果へと正確に、万に一つの誤りもなく結びついている。そしてすべての結果はすべての原因として、ふたたびすべての結果となるべく複雑に絡みあって永遠に連なっている。これから起きることはすでに過去に起きたことであり、いっさいが減るわけでも増えるわけでもない。起きるということはなく、滅ぶということもない。そのなかで、解脱というのはおそらく起こるのか起こらないのかわからぬほどのわずかな確率でしか起きないことなのだろう。だが、なにも起きないのだ。
同情したり、人のために生きることはいくらでもできる。現にそうしている人は大勢この世の中で見つけられる。ところが、それだけ善い性格のもとに生まれついていても(そして彼らがいなければこの世はとうにソドムとゴモラだらけだ)、なぜ?という疑問に対する回答は彼らには見いだせない。まず、まっさきに本能が彼らを突き動かしてしまう。救わなければ、助けなければ!と。そこで彼らは病む者、貧しい者の救済へと向かう。でも、なぜ?(なぜ私は救うのだろう、なぜ私は助けるのだろう)という疑問が生じ、それに対する回答に至る者はいない。ある者は信仰の末に人々の救済へと向かっていく。キリスト教的神や、観自在菩薩様に救われた経験が彼らを、病に苦しむ者や食に餓(かつ)える者の救済へと向かわしめるのだ。だが依然として、階級、貧富、病、困苦、そうした問題が生じてしまう理由は彼らにはわからない。私は知っている。というか、わかったのだ。救う者、救済者を生むために、また解脱のためのヒントを得させるために、すべての不平等(偏り)の謎(理由)はあるのだ。不平等がなければ、不公平がなければ、格差がなければ、人は人を救おうとしない。不平等、不公平、格差、差別は決してなくならない。なぜなら、それらが存在して初めて人は人たることを知り、いわゆる天という場所に住処を見つけられるからである(人を救うものは天に救われる)。差別や病や階級があるのは、そこから人を救おうとするその人を救わんとする宇宙の意思なのだ。人は人を救っているうちに自分も救われてしまう。これは疑いようのない事実だ。だが、人を救おうとするだけでは解脱できない。人類愛(それこそ至高のものなのだが)、それだけでは解脱には至らないのだ。だが、解脱が何だというのか!
闘病の意味。快・不快から類推される病の持つ意味。あるいは無自覚のまま進行する病。
病は不快だ。以前にも記したが、病との闘いは生理的な良好さ、すなわち天界へと身体も魂も惹かれているからだというのが、直観の意味するところのものである。実際たいていの病が不快と感じられるのは、神経が感じた信号を脳へ送り、脳がその信号の解釈を快くないものであると判断しているからで、ほとんどの病はその個体の生命維持に関してよからぬ影響を与えるものであることは経験則から(そして実は経験していなくても、病は不快に感じられることから)、明らかである。わずかな例外を除き(それも私自身は不快でない病を経験していないのだが)、病は不快で、病を得たものは病と闘うか、付き合うかすることになる。私の50年間の人生は闘病とは無縁であったが、昨年12月上旬以来、腕に痺れや痛みを感じてから、運動を怠りがちになり、病は私の人生を悲観的なものにした。それもよりによって自分がほとんどすべての癌検査で全く異常がないことをfacebookで誇らしげに発信してから幾日もたたないうちに起きたのである。
因果というものは宇宙を支配するものなのだが、たいていの現象に関する原因を個人が突き止めるのには限界があって、我々は現実世界で病や不幸に見舞われた際、それが自分の行動の何に起因しているのかを知ることはない。だから不運に見舞われると、〝Oh,my God!"と叫ぶしかない。もし因果律がもっとクリアなものであれば、我々は普段の生活を改めることを怠らないだろうが、因果はどこで原因となり、どこで結果となるかよくわからない。行いの良い者が病を得たり、不遇な生活を送ることを我々はしばしば目にするし、だから因果を信じながら因果に囚われない生活を送り、そうした日々が病を得るまで、あるいは死ぬまで続く(金の力だけは人々を妄信させる)。神は時に無慈悲である。だがそれゆえに信仰心を維持することは貴重なのだ。信仰していると因果を超えることがある。運を天に任せるというのも一種の自己信仰だ。善良な100歳を超える年寄りは、命を神に委ねているので、50歳、60歳、70歳の者より死を恐れない。ここまで生きると、因果を超えているし、別の見地からすれば、すべて因果通りなのである。
闘病、そこにはよくなりたい、健康な体に戻りたいという強い希望がある。健康であった頃に身体と魂が感じていた健全さが記憶にあり、それはどれだけ病の期間が長くても、個体の心から消えることはない。そこで私は諸君に問う。闘病の意味とは何であるのか?
健全さと言ったって、健全な時には少しもその有難みも奇跡も感じていなかったではないか?不健全になるとなぜ健全さを求めるのか?健全とはそも何なのか? 病の癒えた者はよい。深刻な病であったのなら、健康の有難みを忘れることはないであろう。問題は今病と向き合っている者だ。
闘病、絶えざる不快感、希望と絶望の絶え間ない入れ替わり、その果てには諦念があり、そこに至ると人は推し測ることのできない神意というものすごく高い山の頂に到達し、すべてを受け入れることができる。その頂に到達すると、それが急峻なものであるにもかかわらず、ここへ来たのが決して自分一人ではないことを人は知る。それはもはや人知を超えている。不可思議なほどまばゆい光を体験し、それまで自分が闘ってきたもの、病とか病院費用を含めた金の工面だとか、死んでから自分の名が後世に残るかとか、そうした心の葛藤から解き放たれ、長々と続いてきた苦痛に終止符が打たれ、自分が神意にたどり着いたという安心感から、死を恐れることがなくなり、すべてのことに対して受容の心境に至る。闘病の意味、私はそこに格好のいいものを見つけ出そうとしたが、その意味は神意に至る幸せを感じることにあるのだ。これ以上の幸せは地上のどこにもない。闘病があなたを最終的に最も気高い安らぎへと導く。悟りと違ってその道は狭くない。だから安心して進もう。必ずこの最高峰に達することができるのだから。
突然死とか被曝して瞬時になくなってしまうとか、いろいろな死に方はあるが、闘病に関しては最後に安らかな心境に必ず達し、苦痛が取り除かれ、不安が一切なくなるので、私は個人的には悪くないかなと思う(諦念に至るまでの痛みは半端ないけれど)。
そいつはそんなに悠長には待ってくれない。俺がこの筆(というかパソコン)1本で世界を救いとってしまわなければ。だって俺の親父はもうカーロスリベラのようにシャツがしめられない状況だし、この俺自身も体が動かなくなって、痛みばかり走るようになってきているから、だから、こいつはそんなに悠長に構えてられないんだ。だから本物だけを見させてくれ!
マララ・ユスフザイさんがどうしてあの若さであれほど焦っているのか、今ではよくわかる。自分の目で女性が教育を受けられる世界を現実に目にしなければ死ねないのだ。「彼女は若いじゃないか!」というだろう。どっこいそうは問屋が卸さない。もう一度何かの敵意が彼女を襲ったら、その時も彼女は銃弾があの頭を破壊しなかったあの奇蹟を、二度演じられる自信はないだろう。彼女を見ている我々にも自信はない。受賞した後、のんびりインターネットの次の世界の事を考えている人間とは、切迫感や使命が全く違うのだ。それは生きている間にアメリカをはじめ、世界では決して実現しない差別なき世界の実現を、生きているうちに目に焼き付けておきたいという強い欲求なのだ。だから、彼女には時間がない。フロントエッジに立ってしまっている。