馬越康彦の日記

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偏りとバランスの向こうに

僕は反社会的なことを望まない。何故ならば反社会的なことというのは、多くの場合において性急で事の本質から外れたものであることが多いからだ。「事の本質から外れた」という表現をとったが、まさに僕の哲学は、その時代、その時代に潜行している時代精神や世界精神から外れた事件の表出をどのように捉えていくかということに全て命運を託しているので、あまりに突飛で、常識的な倫理観や道徳から逸脱している――いわゆる理解しがたい社会事象(直近で言えば、グアム島で起きた多くの人々の命を奪った事件)の発現をもって、人類の共有している規範意識からの離脱と考え、この時代精神からの乖離をもって、偏りとして把握するのが僕の考えの本質をなしていると考えてくださると、とても助かるのである。
偏りは人類という種を二極もしくはそれ以上の多極化へと導く。個性を持った一つの集まりが一つの極となって偏り、それは同様に全く異なった集団においても発生し別の極を形成し、いわゆる中間層というものは没落して消滅してしまい、いずれの極も偏向し、その偏りが人類の新しい資質の獲得へと向かい、人類は進化する。生き残った偏在集団において獲得された形質が遺伝情報となって、次の代の人類において遍在するものとなる。
思うに人類は古今東西を問わず、ある共通した――倫理観や道徳観をもっているが故に、過去の事件や資料のみならず哲学をも理解できるのであって、私が仏陀の教えを理解できるのも、否過去の人々の意識を理解でき、おまけに未来の人類にこうした形で思想を説くことができるのも、人類という種に脈々と流れている根本的な善悪の観念があるからだと理解している。少し古い言葉で言えば、個体発生は系統発生を繰り返すという理解の仕方である(もっとも僕はどこかでこのことが誤りであると聞いた可能性があるのだが…)。
世界は一体化する方向へ向かっている。資本と民主主義が浸透圧の原理に従って、遍く世界中に広がっていっている事実は誰も異議を唱えないであろう。この一体化の動きは加速して進行し、まもなく世界は一つになる。
一つになったところでバベルの塔の譬えではないが、人類には民族主義に則った分裂が始まり、部族や種族が集団の基本的単位として表現する。これが新しい未来である。こうした偏在化と遍在化の繰り返しが人類史を形成してきたのである。
冒頭に戻るが、社会の突飛な事象の捉え方については、ドストエフスキーが「白痴」において詳しく語っているので、この作品を参考にしていただければ幸いである。
給料の二極化などということが、yahooのトピックスに出たのは最近のことであるが、二極化していくのは給料だけではないのだ。人類そのものが二極もしくはそれ以上に偏在化しているのである。