馬越康彦の日記

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生理哲学

闘病の意味と不幸の意味。病とは生理不全である。生理不全と闘い続ける意義は、強烈な生への意識を形成することにある。なりふり構わず生に執着すること、それは良好な生理への尽きない憧憬を意味する。ついては天上界に入ることを望んでいることの証となる。現実世界における一切の不幸は幸福への強烈な意志の形成につながり、幸福への強烈な意志は常に何処(いずこ)かの世界で実現されなければならぬものなのに、現実世界では実現されないため、不幸と苦悩がこの世界で尽きることは決してない。意志そのものはどこの世界におかれても実現されることを動機づけられている。もう少し踏み込むならば、幸福が実現される世界があることを人間は皆、無意識に知っているので、人間の意志は現実世界でも自己実現へと絶え間なく駆り立てられる。これがホモ・サピエンスの意志である。そしてこの意志は、ひとたび宗教などによって、自らが実現されるのが来世であるとか、そればかりかその実現のために現世での信仰と忍耐が必要であるとかいう煽動によって、この世界(現実世界)での自己実現を諦めるようになると、苦悩が快楽となり、不幸が幸福になるなど、価値の逆転現象へつながることになる。生理は常に不快感に苛まれながらも、幸福の実現を意識する意志の力を尊重するあまり、不快感を甘んじて引き受け続けることになる。意志を規定しているのは生理でありながら、生理は意志を支配しきれない。これが意志と生理の乖離である。我々は世界のあらゆるところでこの乖離を見ることができる。(ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチより)

ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ

ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ

平成26年6月16日

 私にとって生理哲学は年を経るほどに馴染み深くなってくる。何故なら一定の歳を重ねた人間にとり大切なことは、信じていることが学問上正しいのか否かではなく、そのこと(信じていること)によって自分の心がどういう状態へと導かれているかということにあるからである。そちらの方がはるかに大事(重要)である。


平成26年6月17日

 意志がこの世界ならぬ世界で実現されたことを、私たち一人一人が知っているように(それとわからなくても、意志は自己実現を図るので、それはなぜかという問いそのものが、意志がすべからく実現された世界の存在へと我々を導く)、私たちは善と悪についても間違いなく知っているのである。知ったうえで(知識としての認識より前に心身に刷り込まれた種としての状態で)この現実世界へ送り出されてしまったのである。善と悪は人間の成長とともに芽吹き、認識の対象となっていくのだが、それは大抵、個々の人の中で調和の保たれた存在として現有する。が、しかし非常に稀な確率で善しか成し得ない者、悪しか成し得ない者が生まれ出る(これらすべてが世界の意味である。つまり善しか成し得ぬ者と悪しか成し得ぬ者、そしてそのどちらにも付かぬ善悪双方の具有者達の存在に満ち溢れた世界としての世界)。

善しか成し得ない存在を私は絶対善と呼び、菩薩様などの極めて稀有な存在として知る。すなわち体験し、知識とすることができる。悪しか成し得ない存在はドストエフスキーの「死の家の記録」で語られる生まれついて悪しか知らないこれまた稀有な存在として知ることができる。絶対善というのはきわめて明瞭な尺度で、絶対という名前の由来はアインシュタインの相対の対語として使おうとして私が付したものである。ニーチェのくるめき病に対する処方箋として、また私個人の目眩に対する特効薬として私はこれに縋る次第である。

人間の一生とは生まれ出る時に、既に自分の中に刷り込まれたもの(善悪を含めた一切のもの)の芽吹きを、蕾の開く速度や時期に応じて、一生のあらゆるステージで認識し、自分を正しく理解しきることにより、自己と生理的につながっている世界を解釈して納得する作業のことである。すべては自分の中に眠っている。自分をくまなく知ること、外の世界から内なる世界に目を向けることが、悟りの道へと通じる。
“海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに
 わたしのなかに みつけられたから”(千と千尋の神隠し「いつも何度でも」(作詞:覚 和歌子)より引用)






生理哲学(というより、気の使い方、気の用い方)を明らかにしていく過程はこちらを参考にしてみてください。おそらくその道の達人はかなりの数でいらっしゃると思います。
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