馬越康彦の日記

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生理哲学4(自己知)

自分に対する全き知(自己知)に到達すると、ようやく意志は満足を覚える(休息することを許される)。この知に至るまでのすべての活動は一時的なもので(100%近くの人は一生かかっても到達できない。そうした生が永遠に繰り返される、それが永劫回帰というものだ)、例えば権力の頂点を目指したり(スポーツなども同じ血の系譜)、俗世間(人間社会における諸学問・芸術一切)で、知識を洗いざらいすくってみたり、あるいは我も我もと創ろうと試みたり、性欲の奔走劇(いつまでも満足することのない果てしなき旅)を続けてみたりするものの(これらは、まさに盲目的な意志の活動そのもので救いようのない人間の性*1、すなわち何のためにやっているのかよく分からない無知。時として自分の存在の意味もよく分からないことを意味する。この無駄なことを死ぬまでやり続けること、この無駄な活動の継続性が個々の人間の宿命となり、覚者からすると馬鹿馬鹿しい頭を角突き合わせて、いつ満たされるともしれない議論を毎週毎日毎時、それこそ朝から夜中まで永遠にマスメディアを通じて誇らしげに語り続ける愚か者の行為。その者たちの交代劇こそ、まさに浮世そのもの、諸行無常のなせる業と思われるのだ)、いくら取り組んでも満たされることは永遠にない。それにしても覚者となったのなら(あの満足感と晴れ渡るすがすがしさを手に入れたのなら)、それを利用して女を漁ったり、人殺しの組織を築いたりしてはいけない。悟りは確かに突然やって来る。向こうのほうから出向いてくる(その下地を作ることはできるが、悟りとは向こうからノックをして訪れるようなものである。血筋についての条件も重ならないとこの奇蹟は生じない)。でも解脱なんていうのは人間の最終目標ではないのだから、自分が解脱したからその方法を教えましょうなどと人を欺き喰い物にするのは納得できない。それはフェアなやり方ではない。だから誤解のもとになる(まあ覚者がそれぞれの責任で、「自分(覚者)に至らなければ、生きる意味はない」などと喧伝する自由までを奪うつもりはない(それくらい悟りは特殊な経験ではある)のだが)。
*常識的な範囲で申し上げるなら、悟るためには正しい精神の持ち主でなければいけない。身内を裏切り、敵と不義密通を計ろうなどと云う、「自分だけ救われればいいんだ」と云う賤しくどす黒い精神の持ち主(悪と言い換えてもよい)には到底叶わぬ夢。そのような闇はいくらでもある。この近所にもちらほらある。私は今対峙してきた。黒く、暗い。闇夜だ。家系で云うなら私の中の**という血がその黒さと暗さの原点だ。光を放つことなく、策略だけで生き抜こうという愚かな血統。その血統内での滑稽な処世術の諸々。私が救われたのは、このどす黒い血を凌駕し、光を放つSの血である。
*1 幼児の頃は何もかも、世界のすべてを知りたがる時期がある。私も自分の見る山々をすべて知り尽くそうと試みて、一々母に「あの山、何ていう山?」などと盛んに質問して手帳に記していたものだ。また世界のすべての大地を踏みしめようと、車の後部座席でカタカタと足踏みしては、「この場所は通った場所。この場所は通った場所」などと云う征服感で満たされるような気がしたものだ。そうして世界になろうとしたものだ。そうした手段しか知らない愚か者だったのだ。気の毒に大人になっても覚者になれぬ者は、いまだに知識で世界を解釈しようと試みたり、数学で解釈しようと試みたりするものだ(例えばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)。
*2 多くの者が、絵画、映画、音楽、文学、ニュース、ドラマ、映画、テレビ、ラジオ、歌舞伎、スポーツなどなどの中に真理を見出そうとして群がる。アウトレットや遊園地に人が群がるのも同じ。そこへ行けば真理を得られると勘違いして、多くの人が行く場所へと人は吸い寄せられる。だがそこには真理はない。そこでまた他の場所を訪ね歩く。ネットの中やら、座禅の中。京都の寺やアンコールワット。だが、そこにも真理はない。それは自分の中にしかないのだから。
*3 知的薄弱者の特徴、「なるほど、そうだったのか」。毎昼、毎夜見ても世界の真理(結論)に迫れぬ報道番組はただただ虚しいのみ。如何なる洞察をもってしても上滑り。

*1:さが