馬越康彦の日記

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生理哲学5(多幸感の意味するもの)

今日もまた、頭が白い光に包まれ幸せいっぱいの多幸感を味わった。多幸感とは文字通り、幸せが多いということである。早い話私がこれを味わう都度、あまりの幸せに、「敵も味方も関係ない。みんな幸せになってしまえ!」と思わせるほどの幸せである。つまり自分一人では処理しきれないほどの途轍もない幸せが降って湧くのだ。幸せというのは自分一人で抱えきれないものだということを私は知った。人のお世話をする人が三人分の食事も四人、または五人の食事をつくるのも、かかる手間は同じだと云って労をいとわないのとどこか似ている。幸せが有り余りすぎていて、他の人にも与えてしまう。そんな自然な感情。歌で云うなら、“歌いたくなるよな、一日。みんなにも分けてあげたい。ほらチェルシー、もひとつ、チェルシー。(ガロ 明治チェルシーの唄)”といったところ。


あまり自分たちの家庭とか、自分たちの家族だとか、そういうことに執着しないことだ。家とかいう単位は必要なものなのだが、それがあまりに強調されると結局不幸になる。子供の問題も同じ。自分の家だけ孫がいないからと悲観しない方がいい。昔だってそういう家はあった。だが昔は家族が部族として一体となって暮らしていた。ひとつの家庭に一人以上の子など考えの外にあったこともある。そうして部族が流離っていると、遊牧していた。だが日本人は土着することになる。そして遊牧の自由を失った。まあ、難しい話はさておいて、「徳川家康」とか、「樅の木は残った」なんてものを拝読していると、家を絶やしちゃいけないなんて云うちんけな考えの虜となる。そんなものから離れる時だ。領土とか領地とか領民や取れ高などと云うものからはるかに離れたところに悟りはある。それが故に(悟りを啓くことは)難しいのかも。


多幸感を知るということは小乗仏教大乗仏教を知ることにもつながる。なるほど、悟りを啓いた瞬間は「尊敬されたい」とか「俺に礼を尽くせ」なんて思うものだ。小乗仏教という出発点はそこにある。覚者に対する畏敬の要求。だがそれだけでは終わらない。それは多幸感が作用するからである。自分一人悟りを啓いて鎮座ましますなんて云う具合にはならない。敵さえも幸せにするほど横溢する幸福感だから、当然他者を幸せにしようという方向に働く。自分一人が悟りを啓いて、周囲の耳目を集めていればいいというわけにはいかない。自分一人という独占的観念から脱すると大乗仏教へとつながる。この悟りの悦びをみんなへという気持ちが覚者を動かす。これは多幸感を味わってみないとわからない。悟りを啓いた者の使命もそのあたりに関係するようだ。お釈迦様だって同じだったはずだ。


悟るということは性的にも充たされることを意味する。性的に充たされるということは何人もと関係を持つことではない。なるほど自然は真空を嫌うとはよく云ったもので、私が悟りを啓いたときは、自分の陰茎に無数の女の口が吸い付いてくるようであった。真空が生じると埋めよう埋めようという力が働く。鯉の群がる池に抛られる餌、それが真空である。群がる、群がる、無数に集まってくる。悟るとは真空になることなのだ。満足すること、悟ることを知らぬ人間は、この穴へ無数に吸い寄せられる。それを囲んでしまって法治国家から独立することは可能なのだが、それではどこかの教団どまりだ。ついでだから言っておくと、昨日のテレ東の大食い選手権で時代のフロントラインというのを見たような気がする。あまりにも需要が多くて捌ききれないのだ。そこへボンボンとオーダーが入っていくあの活気。負けじ負けじと胃袋に詰め込んでいくあの活気。あれがフロントラインというものだろう。


話が逸れたが、昔を考えてみればいい。昔は生涯を通して自分の伴侶だけとしか関係を持たなかったものだ。またそういう相手しか伴侶に選ばなかったものだ。今やいくらでも性交渉の相手がいるから、次が本物、次が本物と歳を重ねていってしまう。テレビをつければ、とっかえひっかえ「いい女」と云うのがブラウン管に登場する。だが隣町で見かけた別嬪さん(と思しき者)が、実は丁度いい。職場のどこにでも花があるように、ゴールインする相手は近くにいる。そうでなければ、人類というもの、歴史というものを解釈できない。なぜ幼馴染みに気を惹かれるのか?なぜ人は子供ながらに恋をするのか?その訳は、それはそこで伴侶を見つけなさいという天啓であるからだ。結婚は幸せと同じで、身近なところにある。性的な満足も、身近な人と若い時結ばれるほど大きくなる。初恋の人と結ばれるのが、存外もっとも幸せなのかもしれない(まあ、男には夢精という天上界へつながる最後にして最高の扉が、第二次性徴期にあるのだけれど。((性徴期を過ぎた今、これに匹敵し、凌駕する幸せは多幸感だけだろう。))悟りと性の悟りは一体である)。総じていえば、国際社会になればなるほど人類は不幸せになり、覚者は減り、性的満足も得られないまま終わる人生が増えるということだ。バベルの塔がもう一度崩れることを期待する。



*1多様性なんてものは信じちゃ駄目!そこには何の真理もない。国会が国権だなんて思っちゃ駄目!そこは単なる茶番劇。本当の多様は国家、民族が一体となり国家ごとにわかれて存していた過去の歴史にある。現代では諸国家は密接に関係しすぎているので、個々独立した上での関係性を持った多様ではなく、単なるカオスである(民族の不幸)。独立と侵略が止んだ時代は無かった。現代でも各地で独立と侵攻が複雑に絡み合って世界情勢を変えている。まさに諸行無常である。本当に幸せな国家とは、誰が治めているのか、その名を庶民が知りもしないほど、のどかな治世が布かれている世である(民族の幸せ)。かつて中国の夏王朝以前の王朝でみられた「のどけさ」。三国志なんて下賤なレベルじゃない。真の「満足」はどこにあるのか?


*2家康はなぜ子育てに腐心したか?悟りを啓けなかったからである。今、私の関心事は親子で悟りを啓けるのか否かである(と云うより、悟りを啓いた者が子を持てるのか否か)。戦国時代とか江戸時代は最悪の時代。悟りを啓く環境からは最も遠い時代。悟りを啓くと、諸葛亮の行いが類など子供のごときものに思える。人間の執着心が手に取るようにわかるから。良いといわれる映画と栄華は人間の心の執着模様。どちらも見るに値せず。覚者は執着から遠く離れているから。「死生命あり。富貴は天にあり」と諸葛亮は言う。「死生覚えず、富貴は今にあり」と私は言う。なぜならすべてが移ろってしまうから(誰もそれを止められないから)。


*3悟りを啓いたから性的欲望から解放されるなんて嘘!小難しい顔をしながら心の中はとんでもなくエロティックなのが人間。人間はいつもこのパラドックスに悩まされる。つまり純粋な知的高尚さの世界へも、真のエロスの世界にも辿り着けぬ半端な存在。頭は高尚かもしれないが、下半身は下賤そのもの。性的欲求に任せて行動していると、法治国家とやらの法律に触れてしまうのでやむなく欲望を抑え込んでいるのが人間存在の真実。この存在に真の解脱への道は開かれるのか?開かれてしまうと一体何が起こるのか?人間というものの性的欲望は誰も彼も皆同じ。秀でた頭を持っていても、考えていることは下衆と同じ。その意味するものは何なのか?一夫一婦制なのか、一夫多妻制なのか、一婦多夫制なのか、それとも…?心を解き放ち、空にすると、自分の中にさまざまな欲望が顔を出すのがよく分かる(去来)。これらはどこからやって来るのか?その源はいったい何なのか?ソースへ帰れとは何を意味しているのか?なぜ我々は天上界から人間道へと落されたのか?その意味は何なのか?


*4子を捨て、心を失ってまでこの世に何を望む。裏口から入ることが当たり前になってしまっている者には、二度と正面から入ることは許されない。不正を働く者、人をいじめる者すべて同じ。二度と正面から世界へは入れぬ。宇宙の始まりは闇であった。光が誕生するのはそのあとのことである。光ることに疲れると、光も闇に寄り添う時がある。光を与えることは疲れることだ。無数の欲求不満者と付き合うのはとても骨が折れる。無数の者が寄ってたかるだって?人が集まって来るなんて有頂天になっているのは初めの内。