馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

暗鬱な思い 平成26年12月15日

昨日の衆議院議員選挙は自公の圧勝であった。気がかりなのは若者の政治離れより、年寄りの政治離れ(というより投票所へ向かう元気すら年寄りには残っていないこと)だ。前回もそうだが12月なんて季節に狙いを定めてやるものだから、年寄りは足がついていかず、投票用紙など郵送されてきたまま封も切られず、ごみのように重ね置かれている。投票は有難いことに朝7時からやっているものだから、6時に目覚めた私は、下へ降り髯を剃って顔を洗い、自転車に飛び乗って公民館で投票を済ませ、意気揚々と帰ってきたのだ。ところが年寄りは夜中の2時か3時頃から起きだしてリビングでストーブをつけ、電気カーペットに身を預け、暖をとりテレビを見て明け方までぬくぬくと茶をすするか焼酎のお湯割りを飲んで、朝が来たからさぞ元気よく雨戸をあけて、外の空気を吸いに庭へ出るのかと思いきや、2階の自室のベッドに横たわり、暗い室内で雨戸をあけず、蛍光灯をつけてそのまま惰眠をむさぼる。5年このかた投票へ行っていない。投票へは行かないくせに政治には口出しをして、共産党は人の心を打たないとか、共産党員やキリスト教徒のいう私有財産の否定などいくらでも喝破できるなどとうそぶいている。こうした怠惰な年寄りを見るにつけ、彼ら年寄りにこのまま一票を与えておいていいのかと思ってしまう。票が腐って死んでいるぞ。足萎え相手に投票行動を起こさせるのなら、自宅に居ながらにしてネットで投票できるくらいの画期的なことでもしないと、彼らは夏も冬も動かないぞ。期日前投票にだって行きはしない。
年寄りは気づいた時には年寄りだった(我が家の場合)。いつの頃から年を取ったのだろうかと思い起こしてみたが、気づいた時には足萎えで、何をするのも億劫であった。体を動かさず跳ね回らないから腹がすかない。腹がすかないから飯はわずかしか食わず、放っておけば自分の飯を食うのが精いっぱいで、人様のために飯を作るなんて夢のようになっちゃって、米も研がず、洗い物をせず、ごみの分別処理もしなくなってしまい、台所に包丁やまな板の音は一切せず、コンビニで買ってきた弁当やらワタミの宅食やらでいっぱいで、レンジでチンするだけの寂しい台所になってしまい、プラスチックの容器ばかりがうずたかく積もって、気づいた頃には認知症を患っている。何一つやりはしないし、できもしないのだが、近所の年寄りが呆けたと聞くと、「あそこの家では若いかみさんがおばあちゃんの仕事を奪って、何もやらせないから呆けてしまうんだ」としたり顔に呟いて、当の本人は、自分は例外だと思って一向に体を動かさず、正午から焼酎のお湯割りを飲み、まだ陽の高い昼の3時頃眠りに向かい、夜は7時には起きだしてきてまた焼酎を飲み、夜中は前段に記したとおり3時から起きては朝になるとベッドに潜る。ゴキブリかモグラかネズミの生活を見ているようだ。
何を言っても実行しない。口と頭では足を動かさなきゃと分かっているのに、体が動かない。パソコンを10年以上使っているが、使い方を一向に覚えず、OSのバージョンアップなど人任せで、プリンターのインクひとつ代えられない(というかプリンターもネットも使わない)。冬とはいえ、明るいお日様の光がさんさんと射しているのだから、障子などあけて光を入れろと言っても、「寒いから」と言ってカーテンをし、障子をしめてぬくぬくと暮らす。陰気くさく新聞なんか読んで目を悪くするくらいなら、いっそ新聞なんかに目を通さず、5分でいいから散歩してごらんと言っても聞き入れない。本にしたって自分史を出版するわけでもない。「自費出版なんて格好悪い」なんてうそぶいているうちに、気付けば10年経過。光陰矢のごとしはこのことだ。