馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

あたたかさ、温もり 平成26年12月21日

今年も残すところ10日余りとなり、ようやく冬へと体が馴れ始めた。暗く寒々しいイメージばかりが先行していた冬が、だんだんやわらかくて暖かいもの、暖色系のものとして私の中へ入り込んできた。冬が暖かくなったのではなく、私が暖かくなってきたのだ。
多くの方々にとって50代というのは、退職を控えた人生の決算期みたいなものに映っているようだ。私の数少ない友達も、今まで背負ってきた世間の色々なしがらみと睨めっこしながら向き合っている。老後への備えというものらしい。多くの50代の人たちがそうしているように、わたしも計算はし終えている。住処の問題、異常気象の問題、体の問題、シングルであること、孤独死の問題、なかなか老後というのは厄介な相手だ。
作家だとか思想家だとか名乗っていると、気楽な年寄りの道楽者みたいに思われて、羨まれることがたまにある。売上なんてほとんどないに等しいから、今更どうこう悪あがきをするつもりはない。僕はじっと自分の人生を振り返る時間を与えられたのだ。競争競争で、最前線でやってきたのが、ドロップアウトしてみて、自分は存外幸せなのだと気付かされた。就職から定年まで走り続けるランナーには決してわからぬ重大な生の機微。それに触れ、僕は人生の今まで見たことのない側面を知った。人生を俯瞰してみると、意外にも元気でいられるのはわずかな時間であることに気づかされた。僕は気が向くと髯を剃り外へ出かける。買い物などの用があることもあれば、まったく自由に気の向くまま、外で昼間から一杯やり、ご飯を食べて帰ってくることもある。外へ出ると見事に自分ひとりがぽっかりと浮き上がる。
「この爺さん昼間から何をしているんだろうな?」という世間の好奇の眼が向けられる。この眼というのに最近慣れてきた。むしろ僕の方が世間というものに好奇のまなざしを向け始めている。
色々な人を見るにつけ、世間とは何だったのだろう、人生とは何だったのかと、僕は僕に問いかける。色々な競争、色々な罠、出世欲、性欲、権勢欲、金銭欲、そういう諸々のものが手に取るようによく見えてきて、若い者から年寄りまで、色々な欲望に突き動かされて、人間が生きているのがすけすけに見える。
僕の批評家めいたものの語りようは、ある意味世間に対する痛烈な批判そのものである。
心が貧しいほど、華々しい現実という虚構(現実にもかかわらず、今あなたの周りで起きているいっさいの事象は虚構なのだ)が必要になる。貧しい心を満たすためには、栄華という壮大な虚構が必要になる。学歴、金、社会的地位、家柄、性、それらの虚構の中に貧しい心は安らぎを覚えようとするが、それはかなわぬ。虚構の中に築いた栄華は、砂上の楼閣にすぎねばなり。家庭を幸せに導けない者は、70億の人類を額ずかせるほど強大な権力を握っても、たとえ世界の知をすべて結集できるほどの叡智を得ても、人を、民を、国家を導くことはできない。家庭を導けぬ者が、どうして人々を導けようか?他人の幸せのうちに自分の幸せを見いだし得ない者は、幸せを手にすることは一生、そしてそれもその一生が永劫回帰となって無限に繰り返されても、無理な話だ。幸せは人を幸せにすることの中にある。自分一人が永遠に生きながらえることに執着するな。たとえ不老不死を得ても、地上で幸せをを手にすることは不可能なのだ。だったら人を助け、真の幸せを手に入れよ。されば、永遠の命を得、天にて生きる場所を得るからなり。血の支配、血統の因果を恐れるな!どのような血統の家に生まれついても、どのような親のもとに生まれついても、あるいはどの親のもとに生まれついたかさえ分からない孤児だとしても、なお栄光はあなた方の生き方にある。清廉潔白であれ!人のために生きよ!人のために生きるとき、初めて本当の生を受ける。それ以外の人生は、いかなる栄華を極めても無駄である。そのような栄華はすべて幻だから。それは砂、それは埃、それは塵である。この世の中は虚構に満ち満ちている。それらは禍々しい光を放ってあなた方を誘う。あなた方はそれらに憧れ、それらを得ようと粉骨砕身する。そんな人生は生きているうちには、はいらぬ。なれば人のために生きよ。なぜ階級があり、なぜ差別があり、なぜ貧富があり、なぜ救われない命があり、なぜいじめがあり、なぜそれらは一向になくならないのか?救っても救ってもなくならないのか?あなた方は本当にその意味を考えたことがあるのか?その理由はただ一つ。そうした差別を受ける者たちを救わんとする者だけに、生きる意味をつかませんが為なり。いっさいは天のうちに生を受くる者を選別するためにある。いじめも、差別も、貧困も、すべてはあなた方をふるいにかけるための道具なのだ。だから今こそ気付け!狭いぞ!天への門は必要以上に狭い。されどその門を通らずば永遠の生を受くること能わず。ならばよく考えよ!なぜ救っても、救ってもきりがないのか、その意味をよく考えよ。それらはあなた方が涅槃に至るため、天国に入るため、ただそれを判別するために、天に入る資格を持つ者を選別するために、宇宙精神が、仏法が、キリスト教的神が、遥か遠い昔から想像もつかぬ未来へ至るまで用意なさったものなのだ。だから地上にて生きる意味をよく考えよ、地上の宝物を欲しがるな、天にある宝物を求めよ!