馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

悟りから遠ざかる人(仏縁の切れてしまう人々)

私のよく読んでいるブロガーのsさんは、私がテーラワーダ仏教を知るよりずっと前からテーラワーダ仏教を知っていて、スマナサーラ長老の月例講演会などにも足繁く参加されていたのだが、その方は秩父三十四観音の札所参りとか、ついには四国遍路などを始めてしまった次第で、空海密教)や大乗仏教を信仰するようになってしまい、「自分はテーラワーダ大乗仏教の配合割合を探っている」などと言い出す始末で、結果として悟りから大きく脱線してしまい、たぶんヴィパッサナーの智慧が生じることはないだろうと思う。

残念ながら密教大乗仏教には悟りの要素は入っていないからだ。
五戒も守っていないようで、登山をしては乾いた喉を潤すために、ビールなどを嗜んでいるようだ(個人的な飲酒などの習慣には立ち入るつもりはないのだが)。五欲にまみれていては智慧は生じない。

 


また、Facebookで知り合った、これもまた頭文字がsさんという方は、ノンデュアリティなどというスピリチャルにはまってしまって、やはりテーラワーダというか、スマナサーラ長老から脱線してしまって、もう戻ってこないように感じている。

 


おなじくFacebookで知り合ったIさんは、遺伝子組み換え食品と人類減少計画とやらの陰謀を訴えかけるようになってしまい、この方もテーラワーダの実践とは縁遠い日々だ。

 


みんな一時期は熱心にスマナサーラ長老に傾倒するのだが(継続する方は稀で)、見事にいろいろ他事に惹かれていってしまって、今となっては仏縁が切れてしまった感じがする。

 


最初のsさんは瞑想もしてらっしゃるのだが、あとの方々はわからない。結果が出なかったんだろうと思う。
スピリチャルにやられてしまうのも三者中二者の共通点で、非二元論とかワンネスなどの、いわゆる一即一切とか梵我一如という類の経験を悟りと勘違いしてしまって、これらを得た人を覚者だと思い込み、非二元論で躓いている。
梵我一如は修行の単なる通過点(それも極めて初期の通過点)にすぎずヴィパッサナーとは何の関係もないのに、これを究極と思ってしまって、それより先へ進めずにいる。


現象世界にべったり執着してしまって、貪瞋痴の三毒に嵌められて生きていることに気づかない。たぶん今世では現象世界から抜け出せないだろう。

感情で生きるように罠にかかっている(嵌められている)ことに気付かないまま人間としての生を終えてしまうに違いない。

嵌められているんだ、貪瞋痴で行動するように自分はプログラムされているんだと気づいて、撒き餌の罠(現象=色声香味触)から抜け出すことは容易ではない、

スマナサーラ長老に戻るように何とか助けてあげたいのだけれど、本人が選択してしまった道は、傍(はた)から修正してあげようと思っても、できないのが現実だ。


私も最近やっと分かってきたのだが、スマナサーラ長老だけを頼りに修行してらっしゃる方というのは、ほとんどいないらしい。
スマナサーラ長老の本だけを読んで、毎日30分~1時間瞑想していれば、在家なら不還果、出家なら阿羅漢に達するのに、みんな日本人仏教学者や評論家、あるいは悟りに達していない日本人のお坊さんの本などに走ってしまい、サティの実践から離れてしまって、仏縁が切れてしまう。


私が読んだのはスマナサーラ長老の本がほとんどで、それ以外はマハーシ・サヤドー長老の「ヴィパッサナー瞑想」と、アーチャン・チャー長老の「手放す生き方」、それにウ・ジョーティカ・サヤドーの「自由への旅」を参考程度に目を通しただけだが、このやり方が正解だったようだ。
阿羅漢の著作以外に目を通さなかったお陰で、仏教から脱線しなかったのだ。

*(特にアーチャン・チャー長老のLet go(手放す・放っておく)は決定打に近い。何が起きても執着せずに放っておいて、ただ観察だけをする。結果、心が波を打たなくなる)

「空っぽのポーティラ」(*注1)には目を向けなかったのが正解だったのだろう。

全く世間に名が知られなかったことも大きい(今でも無名でいられるのは心から感謝している)。財産や名誉は悟りの妨げにしかならない。釈尊もまったくもって財産と名誉の恐ろしさを説かれている。こうしたものは修行(厭離)の邪魔である。財産や名誉から離れてひとり静かに自己の心身を念をもって観つめることがどれほど重要か。
阿羅漢が本を著したり、説法したりして、人を解脱に導くのは、彼らがなすべきことを成し終えた後の仕事だからであって、まだ悟りの初門にも達してない方が、テレビに出たり、本を書いたり、瞑想指導するのは手順がおかしい。おそらくそうした方々は結果が出ないであろう。残念ながら名声(名誉)にやられてしまい、ちやほやとメディアに取り上げられたので、もう厭離に入れないからである。本人にもその気(世俗から離れ厭離を楽しみ解脱する)はないのだろう。その方には今世では悟りはない、残念ながら。

 

 

仏教は結果が出るのは早いというのに、スマナサーラ長老から離れていってしまうのは残念な話である。各自で選んだ道だから、私にはどうすることもできない。私は論争している暇もない。そういうことは仏教学者や評論家にお任せする次第である。

修行をしていると心の波(波動)が一定(底を打ったり天井にあがったりというように波型をとらないこと)になるときがある。この時認識は自分と他者を区別しないで認識してしまう(受け入れてしまう)。脳波や心臓の波が止まると、もう「私」、「私のもの」という、自他を区別する働きが無くなってしまう。それが心にも起きる。これがワンネスとか一即一切とかノンデュアリティの正体で、万物との一体感で自他の区別が止まってしまう(ただこの程度の経験で覚者になったとか大騒ぎするのは問題外)。阿羅漢と一部の不還果には波そのものを止めることができる。一時的に波が一定の形で流れて万物との一体感を得ても、悟っていなければ、またこころは波となって上下に波型となって動く。だから釈尊は梵我一如などを(究極のこころの安らぎではないと)退けられたのだ。

全体とかワンネスとか現実は起きていないとか、こういったもろもろの見解はまったくの認識違い。すべては一時的に因縁によって現れている現象であるという因果法則そのものを発見できる人はほぼいない(因果法則を知るのはそれくらい難しい)。

因果法則を発見できないから生命は輪廻の中で無限に苦しんでいる。
非二元やワンネスは釈尊のいう涅槃(ニルヴァーナ)とは何の関係もない(非二元やワンネスにも自他が一体となるという喜びはあるのだが、一時的なもので執着に値しない)。ワンネスの喜びを1とするなら、第三禅定に入った喜悦感は1,000以上、貪瞋痴が働かない涅槃はもう、たとえようがない(比較の次元がワンネスや禅定とは別世界)。安穏、楽、もう生まれ変わらない安心。梵行は完成された、終わったのだという安堵。ただ死を待っているだけの状態。生命を超えた生命。
こころが何があってもずっと安定している状態に達するには三十七道品の実践しかない(無常・苦・無我という真理を体験するしかない)。

 

具体的にかつ簡潔にどうすればいいか?

 

六根が六境に触れて認識するところでストップする。色声香味触法という六境=現象を追わない。見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけで、考えることは考えただけでストップする。六境にいかなければ、こちら(パパンチャ=妄想の世界=速行心)にもかかっていない。真ん中にいるわけでもないんだ。それが解脱だ。というのは釈尊がバーヒヤ尊者に語った瞬間説法である。

 

現状でこれを教えているのはテーラワーダ仏教だけである。その中でもスマナサーラ長老の教えは釈尊の教えそのままで、経典を読まなくても長老の瞑想指導や説法や本を読むだけで結果が出る(実況中継などというキーポイントは経典にも書かれているみたいなのだが、実況中継という現代用語がないために、我々が経典に直接あたっても発見できないといわれている)。なぜ釈尊の教えそのものかというと、実証可能(サンディッティコー)ですぐ結果が得られる(アカーリコー)からである。

 

外国の阿羅漢の方が日本語で釈尊の教えだけを混じり物なしに栄養度100%で教えてくれるということはもうないであろう。われわれ日本人は本当に得難い人を得たのだ。

こんなチャンスはもうないであろう。 

 

*1空っぽのポーティラは以下のリンクを参照

j-theravada.net