馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

民主主義の彼方に

東京都知事選が告示された。今回の都知事選も我々の期待する政策を汲み取り、具現化しようとする候補者は皆無のような気がする。なぜこのように我々の期待と選出される代議士やら行政府の長の選挙公約は乖離してしまうのか?それは直接民主制が実現されていないからである。代議士や行政府の意志は我々のそれとはまったく符合していない。我々の期待は何一つ実現しない。繰り返し述べるが、現代の民主主義が直接民主制ではないからである。我々は選挙のたびに博打をしている。まことしやかな政策を掲げる政党や候補者に対して丁半の博打を打っている。そして賽の目は毎回我々の賭けとは違ったものとなる。それ故に毎回絶望する。そして政治離れが加速する。大勝する政党と大敗する政党が出て、我々のコントロールの効かない政治の世界で、沖縄県民は塗炭の苦しみを味わい、被災者のための震災復興はそっちのけとなり、国家は右へと舵を切る。仕事を無理やり創り出して都合のいい失業率の統計を発表しているが、もはやそんな時代ではない。もっと仕事の中身に目を向けよう。されば次の言葉はそれほど反社会的ではないはずだ。今こそ仕事と名のつくお遊びや詐欺まがいの組織行動はやめて、みんなで毎日政治参加をしよう。財貨は遍く日本国民全員に行き渡るべきで、それを可能とするシステムを作り上げよう。
ところで民意というものが実現されぬまま、幾回も選挙が行われ続けると、我々の持つ意志はどうなってしまうのだろうか?意志は意志することを諦めてしまうのだろうか?挫けた意志はどこに実現の場を求めるのだろうか?唐突な話になるが、私の魂に埋められた記憶を想い起すことが偶にある。すなわち意志したことはすべて実現していたという漠然とした記憶、いったいこの記憶はどこからきているのだろう?
全体意志の存在を疑い、民意の存在を疑い、あくまで有権者一人一人の意志だけがあるものと仮定して、その意志が選挙の度ごとに実現されない結果、我々は意志の実現のためにどういう手段へ打って出るのだろうか?自分自身を鑑みるに、私は政治的な意志と云うものを、自らの心のうちに形成して選挙に臨んだことは一度としてないと思っている。投票には行くものの、自分で公約を用意して、それを実現してもらうために、何かに働きかけたことはない。否!公約はいつも用意されたものではなかっただろうか?私は目の前にぶら下げられた公約という人参の中から好きなものをチョイスして、候補者や政党名を投票用紙に書いてきただけではないか?選挙権が与えられて以来、どうも私は投票を意志したのかどうかさえ怪しいと思うのだ。いつも公約やらマニフェストというものが選挙の度ごとに目の前にぶら下げられて、それに対してイエスかノーしか応えてこなかったのではないだろうか?選挙権を付与されてからの自分の投票行動すべてを思い起こし考えてみるに、私は「こういう政治をしろ」という意志表明を一度としておこなったことがないような気がする。恐ろしい話だが、これはつまり政治に参加してこなかったということだ。民意とか全体意志とかいう存在のあやふやなものにすっかり自分の意志を委ねてしまって、自らこれだけは実現しようという確かな思いを持って投票に臨んだことはない。選挙民として失格である。それが原因なのか、私には「この時代を生き抜いてきた」という実感が何もない。多分、この時代と私は別個のものなのだろう。
ところで候補者や政党が、毎度のように我々の希望を実現させると訴えかけてくるのはいったいなぜだろう?皆様方の住みやすい東京はいつ実現されるのか?これは想像でしかないが、もしかすると毎回希望は裏切られ続け、絶望へと変わるものだから、それゆえ候補者は当たり障りのない我々の希望を実現しましょうと、毎回繰り返し訴えかけてくるのではなかろうか?毎回希望を裏切られ、失望し、毎回新たな希望を抱く存在、それが選挙民(被治者)なのではなかろうか?選挙とか民主主義という統治機構の壮大な罠の仕掛けは、我々の意志がよくも挫けずに、毎回希望を持ってしまうというおめでたさに根差している。といっては大げさだろうか?実は今、内戦が起きている国の人間の方が、民主主義の本質に関する嗅覚に関しては、我々よりはるかに優れていると言っては、これまた語弊があるだろうか?