馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

小保方晴子氏に思うこと

今回のSTAP細胞をめぐる一連の報道を見て感じたことは、リアルとヴァーチャルの境界線の峻別ができない世代が確実に育っているという由々しき事態の発生と、それがもう我々の手の届くところに迫ってきているという途轍もない恐怖感に市民社会がさらされているということだ。小保方氏の擁護論者にははっきり言っておきたいが、今回の事件は彼女のあからさまなミステイクであることに何ら疑いの余地がないということである。
そもそもコピペを繰り返し、他人のものと自分のものの区別がつかないということは一体どういうことなのか?これをやってしまったら、もうそれは自分のもの(作品)ではないという本能的な事物についての真偽に関する認識のまったき欠如はなぜ起きてしまったのだろうか?今何が科学に限らず、あらゆる世界で起きているのだろう?
それは野依理事長の言うところのカルチャーの違いなどという生易しいものではないだろう。論文の書き方とかの問題でもない。教わる、教わらないとかの問題ですらない。我々が恐れているのは、これをやってしまったら、自分のものも他人のものも区別が全くつかないということに対する本能的な忌避意識がこれっぽっちも働かない人間が出来上がってしまっているということだ。自他の境界を区別できない精神構造が私にはまったく理解できない。彼女には誇りとか自負心が全くないのだろうか?こんなこと(研究成果)を強いられるのなら理化学研究所を辞めてやるという危険察知能力がなぜ働かなかったのだろう?
仮に半歩譲って教育が行き届かなかったことに責任の一端があると考えてみよう。すると日本の教育の恐ろしい実態が明らかになる。思い出すのも忌まわしいが、私が大学生だった当時、試験の時期になると、大量の講義録のコピーが出回っていたものだ。あの頃から大学教育はおかしくなっていたと思う。自分の言葉で語らず、安直にコピーに頼る大学生が大量生産されだしたのだ。学問に対する良心を持ち合わせず、原書なり原典の1頁にあたることなく安易に試験を乗り越え、良い就職口を見つけることだけを目的とする大学生が大量出現した。それが今から25年以上前。当時私は声を大にして大学教育の腐敗を叫んだが、マスコミも大学も全く相手にしてくれなかったことを思い出す。どっぷりと哲人の思想に浸からず、借り物のHow-To本の薄っぺらな表層思考で要領よく生きていく大学生。こんな連中が今の日本社会を支えているのかと思うと目まいを起こす。
コピー機の次に出回ったのがパソコンだ。そしてまたまた楽をして優秀な成績を残そうとする学生によるコピペが日常化する。もうこの時代になると、教える側も教わる側も、倫理や規範意識を持たぬ素人集団にすぎない。こうした背景があって今回の事件は起こるべくして起こった。
このような抗いがたい時代背景を無視するわけにはいかないが、もし小保方さんの心のどこかに、ほんの少しでも「本物とは何か」ということに対する僅かばかりの学究的良心が残っていたならば、これほどの大問題にはつながらなかっただろうと思うのは、私だけではあるまい。