馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

僅かな知識で世界を解釈できる人

このところニュース番組のコメンテーターを見ていると、とても気の毒に思うことがある。この人たちは一体どれだけの知識を頭の中へ流し込んでおかないと話ができないのかなと考えるときである。それは学者さんにも言えることで、一体何冊の本を読んでおかないと、持論を展開できないのだろうかと思う時が気の毒に思うとき。同時に「この人たち虚しくならないのかな」と思う瞬間でもある。時々刻々世界で起きる事象を無造作に頭の中へと流し込む。こんな作業をいつまで続けるのかな〜と思うものの、これはこれで彼らの生活の糧なのだから仕方のないことだと自分を納得させるようにしている(こういう時、僕はTHE BEATLESのA DAY IN THE LIFEを聴いてやり過ごす)。
現象をある基礎的な数少ない原理で説明しきることのできる人間は今はもういないだろうと思う。良きにつけ悪しきにつけ知識はたまっていく一方である。こんな膨大なデータや知識を墓場まで持っていかなければ気が済まないのかと思うと気の毒になる。あ、そうか!だから彼らは膨大な書を残していくのか!
多様だ、多様だなんてことを重宝に思っている人の何と多いことか!結局自然に任せておけず、自分たちの手で多様をコントロールしなければ、気が済まないことを考えると不思議でならない。
経済学はここ20年で大いに流行りましたね。初等数学ができれば、いくらでも自説を唱えられる。時代に合っている学問なんでしょうね。経済予測なんて当たっても外れても、人は忘れていくものだし。
最後に付け足すと、私は日本で法の支配が働いていることなど一切信用しない。あくまでも僕の友達の話だが、「お前の職場にも、お前のうちにも押しかけるぞ、覚悟しておけ!」という脅迫電話を受け取ったので、その脅迫電話をYOU TUBEで流したところ、名誉棄損罪で訴えられたそうである。法律というのはすべての流れを解明したうえで、最終的に悪人に鉄槌を下さなければ、単に個々の事案に構成要件を当てはめるだけの児戯である。まして責任能力の有無の判断はほとんどいい加減なものである。と、思うと言っておこう。どうしてかと言えば、友達のように何の罪で訴えられるか分からず、とてもとても怖いから。こう考えれば、言論の自由など全く保障されていないことがよく分かるでしょう。構成要件該当性という作業をせっせとする人達を世間では法律家というらしい。こういう世法には極力関わらず、仏法の治める世の来たらんことを私は強く望んでいます。