馬越康彦の日記

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馬越康彦

馬越康彦とは編集

私は馬越康彦である。私について誰も語ろうとしないので私自ら私について語ってみようと思う。まず私の哲学についてだが、私の哲学の根幹にあるのは、偏在と偏在からの解放(遍在)による人類進化、規範、道徳の変化が第一点であり、第二に生理哲学による人間存在の意味の解明がある。第一点については私の著書「偏りとバランスの先に」
偏りとバランスの先に

偏りとバランスの先に

を、第二の生理哲学については「ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ」
ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ

ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ

を読んでいただければ、十分ご理解いただけると信じる。
さて私の人となりについてだが、私は決して気長ではない。むしろ短気ではなかろうか。誠実ではあるが、若い頃より勤勉ではない。報道に動かされやすくなっている(例えば小保方晴子氏によるSTAP細胞なるもの)。私は平常心を信じないし、努力が報われるという子供じみた幻想はもう抱いていない。ただ私は絶対善の存在を信じ、相対的世界における心の拠り所としている。
私の父方の家系であるが、父の祖父は村上性であり(馬越家は村上の系譜より婿を取っていたのだが)、村上水軍と係わりがあるらしい。どうやら正岡子規とも関係があるらしく、さかのぼると馬越というのは地頭であったと聞かされた。私は母の家系については全く知らない。もっともこの父方の家系にしても何ら明らかなことはなく(父の祖父が村上性であった程度しか私にはよく分からない)、私の出自について名誉となるようなことは覚束ない。母方について全く知らないというのは厳しいことだが、自分の性格やら性質、行動などを鑑みるに、私の何がどちらの血を継いでいるのか、わりあい私自身はわきまえているつもりだ。
私は吝嗇家ではないが、かといって蓄財を散在するわけでもなく、極めて冷静に私の消費を考えると、私はバランスの取れた人間であるといえる。穿った見方をするならば、天才肌とは縁遠いのだ。
時間の使い方にしても、私は気の遠くなるような精密機械とははるかに距離を置いているし、かといって酔生夢死を信奉しているわけでもない。中庸といえば聞こえはいいが、単なる努力家に過ぎない。
私の父の出身は愛媛県伯方島である。この田舎の特徴といえば造船と伯方の塩であると思っていた。が、先だって父が喜寿の祝いで郷里を訪れしまなみ海道伯方島へと向かい、当地を車で一周したとき感じたのは、「畑はどうなった。塩はつくっていないから塩田はない。造船所も役割を終え、衰退している。観光地となるにはあまりにもマイナーで、しまなみ海道の通過点でしかない」ということであったようだ。テレビ東京のローカル路線バスの旅でしまなみ海道が取り上げられたが、伯方島は何もない島としか私の目には映らなかった。



平成26年8月11日(月)夜(21時7分)から白い光に頭が包まれ、多幸感を得る。「絶食と悟り」でググると、自分が瞑想の境地に達していることを確認できた。白い光と多幸感は2月17日(月)、6月30日(月)以来、三度目の境地である。今まではこの状態が至福であることは知っていたが、瞑想の境地であることまでは知らなかったのだ。http://ringoon.jp/2010/05/08/memo-5.htmlのおかげで初めて知り得たのである。その夜は正直眠ったり目覚めたりを15分〜30分間隔で繰り返し、気が付くとカーテン越しに夜が白々と明けているのを知った。陰茎に無数の女の口がしゃぶりついてくるのを感じ、そのまま性の悦びに浸っていようかとも思ったが、おそらくここで性に身を委ねてしまっては悟りの境地には達しえぬと判断し、そそくさと瞑想の入り口を出て、生の根源というなかば湿原のような森へと入りこんだ。この森をうろうろしていれば、私の提唱する生理哲学の解明に至ると思い、思考はそのまま流れるに任せ朝食をとり、再び寝たり起きたりを繰り返した。昼をとった頃から、心の中に「ソースへ帰れ」という何者かのメッセージを発見し、いったん瞑想状態から現世へと戻った。ああ、マトリックスリローデッドの最後にソースへ帰る場面があったなと思い当り、これ以上生の森をうろうろしなくても、映画を見れば今後自分が何をなすべきかわかるだろうと判断し、DVDを用意し観たのだが、退屈のあまり中断。そのまま今日(8月14日木曜日)へと至っている。瞑想の境地に至ったとはいえ、特別に変わったことはない。何か特別な力が備わったわけではないし、人より抜きん出たというわけでもない。ただ一つ言えることは、人間の普段考えていることがいかに自分の考え(というより悟りの境地)より劣っているのかという思いと、征服感を得たことである。大統領、首相、法曹関係者、科学者、大学教授、考古学者、気象予報士その他諸々の存在が自分の高さの遥か下をうろついているそれであることを悟ったのである(彼らは悉く考えによってものを語るのだが、私はすべての生の存在という生理学によって語る。これが決定的な違いだ。人間の知識の及ぶところなど、お釈迦様の掌の上の孫悟空と同じでたかが知れている)。「歴史は確定した」というコメントをツイッターに投稿したのだが、その何日か前にFacebookで、近々ここ50年の歴史が確定されてしまうから要用心と訴えかけていた通りとなってしまった。先人にも後人にも気の毒だが、ここ1世紀の歴史はすべて私という存在を生み出すために有ったのだと感じた(とてもおこがましいのを承知で敢えて私は話している)。どうして私がこのように生まれついてしまったのかを考えてみたい。
少しその前に…。平成26年8月14日(木)21:47。また白い光に包まれ幸せいっぱいの多幸感を味わっている。コツというか、どうしたらこの多幸感を得られるのか少しわかり出したので記しておきたい。不幸の存在がまず必要である。そしてその不幸を承知の上で、それを悲嘆したり、それをもたらしたものを神や仏の裁きの場に引きずり出してやろうなどと言う考えを捨てて、受け入れてしまうことである。そうすると頭の中に白い光が満ちて幸せいっぱいになる。

府議だの法律家だの評論家だのが懸命にテレビで議論しているのを見ると、あほらしく思える。彼らは論理とか人間のつくった法律だとかに従って、必死に相手方をやり込めようとするが、そもそも人間が論理的な存在なら、いざこざを起こして法律なり、党の除名処分を受けるようなことをするはずがないんだ。法感覚のバランスなんて言葉を聞くと吹いてしまう。人間50年も60年も70年もやってきてこの程度なのか?いい加減に気付いたほうがいい!人間社会は、法律だとか経済だとか、社会学だとか軍事バランスだとか政治学だとか、そうしたものの範疇にはないんだって。だから君たちが弁護士だとか、裁判官だとか、評論家だとか、大統領だとか内閣総理大臣だとか、様々な意匠をまとって発言しても、私には馬鹿の戯言にしか思えない。まずそんな身分によってきっちりガードを固めてから人を罰するようなこと、人の自由を奪うようなことを止めなさい。経済評論家とかも同じ。いいかげん自分の無知を知れ!そんな程度の知識の習得に汗水たらしてみても、まったく価値がないことをいいかげん悟るべきだ。学問というお遊びを止めて、ひたすら汝を知ることにつとめたまえ!無知の知なんてソクラテスが語ったことだとなまじ知っているから、本当の理解には至らないんだ。名声やら銭だけはしっかり身につけるが、本物の光を放てない。考えるな!感じろ!考えるな!悟れ!

平成26年8月17日(日)「悟れ!」なんてことを偉そうに言っておきながら、突き放すようなことを述べるが、おそらく悟りに至る者は、そうなるべく生まれついた者だけではなかろうかと思う。悟りに至った者が100万人いるとし、そのすべてが日本人だと仮定して、総人口1億2千万人で割ると、悟りに至る確率は0.8%、つまり99.2%の人は悟りに至らない。これが全世界に散在していると想定して人口70億で割ってみるとほぼ0%の確率となる。悟りがいつ(何歳で)その人の心に啓けるかが全く分からないことを考えると、悟ろうとして悟ることはできないのではなかろうかと思うのだ。悟りが利己的で、排他的な人(自分の努力の成果はすべて自分に帰属すべきだと考えている人)には絶対啓けぬ境地であるならば、悟りなんて無理に啓こうとせず、そういう人は医者とか弁護士とか政治家や評論家などになって、お金にも住む処にも困らず、そのうえ名誉心も満足させてくれる職業に就いた方がよほど幸せだと思う。しかも諸行無常であり、悟りの境地にたどり着いたときこそ晴れ晴れとした万能感やすべての存在との一体的調和感の溢れる境地に浸れるものの、常に心がそういう状態にあるかと言えば、そうではない。悟った人もやはり瞑想をしていないと同じ心境にとどまり得ることは不可能なのである。しかも医者や弁護士は仕事をしていればよいが、悟りの人は悟っても何ら経済的見返りや支え、恩恵に与れるわけではないので(職業に就くこと自体が無理なので)、悟る必要は人類にはないし、そこには幸福もない(その割には瞑想することで多幸感は好きなだけ味わえるんだけれど)。現世的な満足を味わうためには悟らない方がいいのだ。しかももしわれわれの生が永劫回帰するならば、悟る者は百万回生まれ変わっても悟りの境地に達するが、悟れない人は百万回生まれ変わっても悟りに至らない。しかも悟った人はそれでおしまいではなくて使命を負わされる。私の場合は、「ソースに帰れ」だ。何を意味しているのか一週間経とうとしているのに未だに判然としない。悟りの人にはそれぞれ使命がつきものらしい。まあ、生きている意味とか人生の目的というのは十分わかるし誇らしいのだが、人間は何もわからずに終わっても、それはそれで幸せな人生があるのだから、無理に悟る必要はないし、悟ることは無理だと思う。

だが何かが一つ一つの個を突き動かす。これは本来の自分ではない。これは本物の私ではない。たとえ現世では悟りに繋がらなくても、何かが一人一人を突き動かす!それは何なのだ?!彼らは結局悟りに至らない。毎回毎回生まれてくる度に突き動かされ、本物を見ては心動かされ、自分も本物になりたいと永遠に恋い焦がれるだけなのだ。

諸文明、諸文化の果てしない発達の意味。自分を知るに至らない者が、永遠に自分を満たそうと試みる無駄な行為の連続。いつまで経っても納得できない人々。

時代精神を語ろうなんて嘘には付き合わない方がいい。本物は諸行無常の世界の中で、普遍的な人間像を語り尽くそうと精魂込めて筆を執る。時代精神なんてものを頼りにしているから、その時代しか謳われない、読まれないようなものしか残せないんだ。

男がよくよくのことでやってきた時、矢吹さん、
あんた訳を聞いて引き受けたり断ったりしますかね・・・(ゴロマキ権藤)

子供が悟りにいちばん近い。子供は大人が語る前にすべてを知っている。本物ばかりを探し回っている。彼らの目にも耳にも世界のニュースは送り届けられるが、彼らは関心を示さない。それが本物の世界でないことを子供が一番よく知っているから。でも彼らは悟りの一歩手前で、居心地の良さに満足してしまう。つまり揺蕩うのだ。それに悟りに至るには少々知識が必要だけれど、彼らはそれが成熟するのを待てない。やがて彼らは肉欲、すなわち性欲の虜になる。本物の性欲に浸る切る前にプラトニックな世界へとその魂は少しの間天界へ引き戻される。それが憬れの世界を垣間見る最後の時とも知らずに…。大人は知識がついてしまっているので悟りから遥かに遠くなる。知識で世界を解釈しようとするので、いつも知識を欲し、目がほんのドアノブひとつ回したら啓けている“悟り”の世界へ向くことはない。渇いたのどが水を欲するように知識への欲求のグラスが満たされることはなく、性欲、権勢欲、金銭欲などのあらゆる欲望に取りつかれたままだ。こうしてたいていの人の一生はあっという間に終わってしまう。音楽や詩、哲学などが彼らの本能の戸を時折叩くことがあっても、彼らは欲求という住み心地の良い家から解き放たれることはない。百万回生まれ変わっても百万回同じ軌跡をたどる。だから永劫回帰なのだ。