馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

両親を無事お弔いして思うこと ―— この記事は徐々に書き足します ――

今日で、昨年の母の通夜から一年がたつ。私が両親のため?介護離職したのは48歳の時である。48歳といえば、世間のことも家庭のことも、どちらもある程度こなせる人のように思われるかもしれないが、独身の私は実家暮らしで、まだ親の庇護のもとに暮らしていた。

 

掃除も洗濯も、庭の木の手入れや、花壇に水やりするのも、外壁塗装のタイミングや、瓦の屋根をガルバリウム鋼板に葺き替えるのも、雨樋の補修や散水ホースの水漏れも、防鼠工事も何もかも親任せで、何一つできませんでした。

 

さらに悪いことに、車の運転、とくに自宅の駐車場に車庫入れすることすらままならないという、「きみ、何ができるの?」と問われたら返答に窮する無能力者だったのです。

 

私よりひどい者はそうそういないでしょうが、子共で50歳近いといっても、自分の介護を当てにしてよいのか、中には引きこもりなどの諸事情で、介護を頼むどころか、衣食住の面倒を見なければいけない子共かもしれません。引きこもりではないにしても、コロナ禍で職を失い、生きていくのに困る人がたくさんいますから、自分を看てくれる頼りになる子共というのは、まずいないと思った方がいい。自分が迷える存在なのだから、子共も又、迷える存在なのです。

 

10年前、それまで元気だった両親が相次いで入院した時は、相当焦りました。何とか車で20分ほどの所の都立病院に運びましたが、父の手術が午後始まり、終わったのが夜7時過ぎ。5月でしたが、外は真っ暗でした。母は入院を一週間後に控えていましたが、まだ自宅療養でしたので、二人で車で家に帰らなければなりません。自分の車で帰るのですから、何が問題なの?ということになるのでしょうけど、当時の私は、昼間ですら車庫入れがままなりませんでした。前面6Mの道路でこれですから、いかに下手かがわかるでしょう。

 

 

当時弟は結婚して3人目の子供ができたという事で、嫁と子供に囲まれて、わいわいと大変ながらも徐々に若い力が育っていくのが、私の目にも明らかでした。日昇る国といったところでしょうか。それに対して我が家は、だんだん死が近づく父と母を抱えて、50歳近い私一人が孤軍奮闘して、それまでやったことのない家事も介護も家計も、すべて独りでやらねばならない。両親を見送った後は、自分で自分の後始末をしなければならない。誰も手を貸してくれぬという事で、絶望的に真っ暗でした。震えていました。悪夢にうなされていました。

 

 

我が家は、「日、没する国」という感じでした。ちょうど今の超高齢化と少子化で国力がそがれ、その国の尻拭いを一手に任され、敵兵との最前線に立ちながら、安全に兵をゆっくりゆっくり後退させていく指揮を、自分一人で担わなければなりませんでした。とにかく、全部自分でやらねばならぬ。

 

幸いだったのは、我が家が比較的お金に困らない家庭であったという事でしょうか。両親とも亡くなってしまい、恥を覚悟で具体的な金額まで踏み込みますが、父は東京都の職員、母は電電公社勤務後、父と結婚して、私が小学校2年生頃からパートに出ていました。父が2か月で50万5千円、母が同じく10万4千円の年金が支給されていました。双方合わせて61万の年金を、本来父と母の2人で使うはずが、私が介護離職して無職ですので、3人で使う。預金が2,000万を超えていて自宅はローンが終わっていましたが、築35年を経過していて家はボロボロでした(家は父が中古を購入しています)。こうして書いてみるとはっきりしてきますが、父の財力で成立していました。

  

私が年金支給される65歳まで父か母のどちらかが生きていれば、家は残してやるから何とかなるよというのが母の口癖でした(実際はそれよりずっと早く二人とも亡くなってしまうのですが。親の寿命は子どもの期待には添えません)。

 

住宅街にいたため、買い物は車でした。それまで父と母の二人で買ってきていたのが、父が徐々にはずれていって、私と母が車で出かけるようになりました。

こう書くとスムーズに移行しているかのようですが、実際にそうなるまではなかなか大変でした。父はその役を私に譲ろうとはせず、それでいて身体は動かなくなってきていたのを隠しながら、嫌々車を運転して買い物に出ていたのですが、母が「お父さん、買い物に行くわよ」と呼びかけてもなかなか応じず、私はスーパーまでの運転がままならない(と、いうより自宅もスーパーも駐車が不自由で車を動かせない)。冬の食料が尽きかけた時など、母が500メートル離れたスーパーへカートを引いて買い物に行くのですが、「よく動いてくれた、お母さん!」などと、日記に記すほどですから、都内と言っても多摩に暮らす人にとっては、車は必需品かもしれません。まあ、私のように駐車できないから動かせないという人も珍しいかもしれませんが。

 

今は生協の宅配便がいいかもしれません。またセブンイレブンが近くにあったので、弁当が500円から宅配していただけるのをいいことに、よく使っていました。だんだん最低利用料金が上がっていったと記憶しています。買う時はまとめ買いしていました。宅配便も使用頻度が高いと、業者が嫌がるようで、家は根っからのねぎらい好きなので、よくみかんを差し上げていましたが、そういうインセンティブが働かないと、嫌な顔をされます。

 

 

我が家の近くには学芸大学と付属の幼稚園から小学校まであるのですが、春先などは窓を少し開けていると、ラグビー部の練習の声が届きます。「うぉー」という怒涛のような声が聞こえてきて、それが耳に入ると、私の血も騒ぎます。この頃は年老いていく両親と私に、嫁が加わって、子どもが生まれ、若い血が入ったら、どれほど心強いことか、そうなったら私は介護も子育ても共に頑張ろうなどと、夢見ていました。家庭を持つ最後のチャンスになるところでした。そういう夢想をすればするほど、ジレンマで頭はきりきりと痛みました。

 

 

年寄りと一緒に生活していると、生活が年寄り染みてきます。ともに50年暮らしてきた両親ですが、若い頃は力で守ってもらい、学校から社会人の始めまでは財力で保護してもらい、と常に助けてきてもらったのに、性格がだんだん意固地になっていく父は、私や母とは一線を画して生活し始めました。多分に私に対する失望があったのでしょう。父も若い力が家に加わることを望んでいるようでした。

 

父はよく、「康彦はアウトサイダーだな」と言っていました。大学を卒業して就職するところまではよかったのですが、一度転職してしまうと、癖になって我慢のきかない性分になっていくようです。父としては学歴同様に、就職先も輝かしい企業を期待していました。それがかなわぬ今、結婚だけはして、この家を子供の声で一杯にしてほしいと思っていたようでした。私がそれにも応えられないことがはっきりしてきて、「何のためにこの子(私)のために、投資したのだろう?」と訝しく思っていたようです。