馬越康彦の日記

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あるのは結局エネルギー  物質は存在しない?

生滅智によりモノおよび心の生滅がわかると、疑問が生じる。私の身体は生・滅の波で現れて消える。私が座っている座布もまた生・滅の繰り返しで現れては消える。
私と座布の接点は、私の身体がある時(生のとき)、座布がある(生)もしくは座布がない(滅)の2通り、私の身体がない時(滅のとき)、座布がある(生)もしくは座布がない(滅)の2通り、合計で4通り(4パターン)ある。

 

私が日本テーラワーダ仏教協会に質問してまだ回答がないのであるが、半年前に質問したのは、私の身体が有(ある・生じている)で、座布が滅(ない・滅している)のとき、私の身体は何の上に座っているのでしょうか?というものであった。

 

座布がないとき、座布の下の床に私の身体は接している(乗っかっている・ある)のであろうか。だが、床もまた生滅を繰り返している。つまり、あったりなかったりなのである。

 

床がないとき、私の身体は何の上に生じているのであろうか。地面(土)の上に生じているのであろうか?では座布も床も地面(土)も滅しているとき、私の身体は何の上に接しているのであろうか。

 

私の身体とモノとの関係は、実はその上に乗っかっている(接している)のかいないのかすらわからない。ここまでくると、モノがあるという仮定で話を進めていたのが間違いであると気づく。

 

とりあえず見た目の物理学の世界では、私は土の上に張られた床板の上の座布の上にいるようであるが、それは間違いである。確実に成り立たない話なのである。物理的にはモノの上にモノがあるのだが、真理の世界ではそれは誤り。

 

モノも心もある(有・生)のではない。ない(無・滅)のでもない。原因があって条件がそろっているところで、一時的に生じてまた滅してしまう。滅したはずが、原因と条件によって、また一時的に生じてしまう。

 

物理学がどういう世界のとらえ方をしているのか専門外の私の知るところではないが、モノがあるという前提の上に導かれた諸学問は、すべて正解にはたどりついていない。

 

ヴィッパサナー瞑想で、ものすごく超越した観察眼で自分の身体を見ることによって得られる真理が、因縁法則であり、結局世俗諦の世界で成り立つのは因果法則なのである。アルを前提にしても正しい答えにはたどり着かず、ナイを前提にしても正しい答えには到達しない。

 

モノはない。モノとモノも我々が考えるような、位置関係・物理関係を保ってはいない。物質は究極的には存在せず、あるのはただ地水火風のエネルギーのみである。これもまた驚く智慧である。一般人にはけっしてわからないし受け入れられない。

 

量子力学はモノではく、確率論(波動関数という確率の波・情報)の上に成り立っているそうである。確率というのも地水火風のエネルギーの密度を予測するみたいなものであろう(現れて滅するという生滅の波も含めての確率論。波・波動は結局ふくらみとちぢみなのである。昔のテーラワーダ仏教徒はとっくに物質はナイ、あるなしを含めたエネルギーの密度の確率論であるという正解に到達していたのである。

 

エネルギーというより、正確には機能、役割、英語でいうFunctionが妥当ではないか。
性質といってもいい。

生滅智 生じるのも滅するのもおそろしい

モノと心が瞬間瞬間生じては滅することがわかる(生滅智)と、せっかく生じたのに、すべてが消えていく(滅)ことに対する恐れ(怖畏智=ふいち)、もしくはその逆に、消えてなくなったものが、因果法則によって条件がそろえばいくらでも生じてしまう恐れ(これまた怖畏智=ふいち)、消えっぱなしで終わってほしいのに、条件がそろえばまた生じてしまう(つまり輪廻転生が終わらない、滅して(死んで)それで終わりにはならず、また生じてしまうという)恐怖につながる。

 

生滅智が生じれば、あとは仏道の一方通行で高速道路に入ったようなもの(スマナサーラ長老曰く)である。私はマハーシ・サヤドーの「ヴィパッサナー瞑想」を読んでいたので、モノが滅すること、せっかく生じたのに滅して滅していく怖さ、恐ろしさが書かれていたので、怖畏智へ進むためにそれ(滅する怖さ)を無理やり感じ取ろうと努めたが、失敗でした。

 

むしろせっかく消えた(滅した)のに、また生じてしまう、現れてしまう、そのことのほうが余程いやらしくて怖いと感じられた。滅したはずなのにまた現れるので、身体が死んで終わったのに、心が連続するからまた次の世界で身体をつくってしまい、それがずっと続く(輪廻転生してしまう)恐怖。これも怖畏智である。いつまでも続く輪廻。それに飽きて、それを嫌悪して、それ(輪廻)から逃れてください。

 

現象世界では生じて滅するということが、ノンストップで終わらない。現れるから滅する。そして滅するから現れる、これが現象であり、現象をつないでいるのが、因果法則なのである。現象は隙間(すきま)なく流れる。現れた現象は消える。消えるから次が続く(現れる)。現れるモノは消える。修行者はまず極度に集中して、観察する。観察対象は四念処にしたがって、身体、感覚、心、ダンマのいずれでもよい。とにかくものすごいスピードで生じて滅している、滅して生じている、これがわかればOKです。ほんの一瞬わかればOK。智慧が生じるというのは、ほんの少し真理を自分が直接観察すればOKです。それで本物の理解が得られます。マトリックスのネオのように、現象がいつでも暗合化された機械言語のように流れていくのを見ているのではありません。ネオも平時は違うのかもしれませんが。ほんの少し、現象が驚くほどの短い時間で生滅しているのを観察できれば終わりです。智慧が生じますから。一度生じた智慧は消えません。

 

現象は消えて現れる。消えたのに現れるのは因果法則があるからです。そしてまた消えます(滅する)。原因がなくなれば、現象も消えてしまいます(これも因果法則)。これは究極の智慧、すべてがわかる恐ろしい智慧です。因果法則がわかると、業(カルマ)がわかります。業は因果法則の「心」の領域での応用例・適用例(Application=アプリケーション)なのです。

 

なぜ自分の今感じている感覚が過去の行為の結果であるのかとか(もちろんそれは原因があるから結果が起きているのです)、善いことには善い結果、悪いことには悪い結果があるという、そのことがわかると、カルマの仕組みに対する理解が驚くほど進みます。他人の皮膚によい感覚を与えると、自分もよい感覚を得られたり、他の生命に満腹感をあげると、自分も満たされます。しかもカルマは1対1で原因と結果が照応しません。1あげると、100返ってきたりします。ここが不思議なところです。

 

ここまで来たら、スマナサーラ長老の「パワーアップユアライフ」とか「ブッダが教えた業(カルマ)の真実」とか「ブッダの実践心理学の第五巻 カルマ(豪)と輪廻の分析」とかを読み直してみるといいでしょう。

 

生滅智を通して知る因果法則のすごさ

仏教では因果法則を知ることがすべてだと私は思います。すべて起きるべきことが起きている。現象というのは因果法則によって起きるべきことが起きているのだと知ることは、現象とは何かという問いに対する究極の答えであり、この答えにたどり着くと、現象に対して不平や不満、期待や希望を抱くことがなくなり、ごうごうと燃える山火事が滝のように降り注ぐ雷雨によって鎮火するように、期待や希望・不安から燃え上がることはもうなくなり、山火事の消えた後の安定した安らぎの中に入ることができます。その安らぎは因果法則を身体で理解しないと得られません。現象という魔術(マジック)のネタがばれてしまった人には、もうその手品は通用しません。

釈尊が究極の悟りを得た後に、このことを非常に感嘆して語った偈がありますが、もうこのブログで何度も取り上げたので、ここでは載せません。

 

因果法則がすべてだと思い知らされたのは、生滅智が生じた時です。私の場合は極限にまで感覚を研ぎ澄まし、ものすごく集中して身体をサティしている時に、食道がすごいスピードで消えて現れ、消えて現れるのがわかったのですが(いわゆる因の身、果の身とよばれるもの)、消えた食道が再び元のように現れるのは原因と結果によるのだ(因果法則によるのだ)と思い知ったとき、震え上がる思いでした(消えたら消え放しでもよいのに、再び前とそっくりに生じるのは原因と結果の関係、つまり因果法則が作用しているからです。普通の人はここまで瞬時に物や心の生滅を見られないので、食道がずっとあり続けていると思っている。実は身体は瞬時に消えて、また瞬時に現れています)。

 

エホバ神やアッラー大日如来や観世音菩薩が宇宙の法則の根源ではなく、原因がそろえば結果が生じるという因果法則が、この現象世界のすべてであるとわかることは重要です。

 

「あれが正しいのではないか。こちらの真言や祈りや読経が本当かもしれない」などという一切の疑惑が、跡形もなく遮断されます。この世の仕組み(因果法則)が分かるわけです。

 

これは仏教をいくら勉強してもわかりません。ものすごい智慧なのです。学者や評論家や在家の日本のお坊さんたちが仏典に学び、いくらせっせと寺を掃除し護摩行や千日行をしても、さっぱりわからないものなのです。ですから釈尊は真理を体得せず学問のように勉強しているポーティラさんに、「からっぽのポーティラ」と名付けたのです。この話も過去に何度も取り上げたので、もう載せません。

 

5つの法則があります。1.自然・2.遺伝(コピーの法則で種子)・3.こころ・4.業(カルマ)、5.法(ダンマすなわち因果法則や無常・苦・無我)の5つです。よくダンマを自然と勘違いしている人がいますが、勉強不足です。仏教は自然主義宗教ではありません。本来みなが仏だとか、すべてに仏性が宿っているとか、そういう非科学的な妄信や信仰ではありません。仏教は科学よりも科学的なのです。

 

よくフェイスブックとかに、アーチャン・チャ長老などの著書の文を載せてご満悦している方がいますが、阿羅漢の言葉を載せると、自分が話したことのようにうっとり酔いしれて、気持ちよくなって、「みんな、これがダンマだ」と誇らしくなるのはわかります。自分も同じでした。そういう方を散見しますが、仏教の智慧はそんなことでは生じません。それほど甘くないのです。頭で理解するのと身体の骨の髄でつかまえるのとでは、雲泥の差なのです。

 

またスマナサーラ長老の教えや、アーチャン・チャ長老の教えあるいはウ・ジョーティカ長老の教えを、ちゃんぽんして仏教に酔いしれている方もいますが、この人と決めたら、一度とことん、その人について行くことを薦めます。理論体系や学び方が首尾一貫しないからです。

 

日本の僧侶はあまりお勧めしません。瞑想で結果が出ないので、そちら(日本の僧侶)に付くのでしょうが、定評のある外国の僧侶が間違いありません。とはいえ、パンデミックの大流行とミャンマーでの軍隊の乱圧により、修行の場が限られてきてはいますが・・・。

 

脅すようですが、悟りはそれほど甘くありません。自己を徹底的に観察してください。お勤め(行)は悟りと一切関係がありません。頑張ってください。

幸せってなんだっけ?

幸せってなんだっけ?—— だいぶ前に占星術細木数子氏が番組を持っている時の、タイトルであったように記憶している。包丁の使い方のままならないお母さん方を前に、細木氏が見事な包丁さばきで料理を造り出し、タッキーをはじめ、みんなで「美味しい、美味しい」と食べていたのを思い出す。

 

 

最近はユーチューブでグロービスという経営大学の講座が見られるので、時折見ているのだが、数ある講座の中で今日見た「幸福の研究」というのは面白いなと思った。

 

 

幸福の感じ方や、そもそもどういう状態を幸福と定義するのかが、各文化圏ごとにはっきり違っていて、たとえば「おしん」というドラマが評価される中東と日本が、幸福の基準にネガティブな条件(fear  of  happiness=幸福への畏れ?)が入ってくるなど、なかなか面白くて参考になった。

 

 

ついでを言わせてもらうと、グロービスでよく聞かれる「生かされている」とか「偉大なものに導かれている」というのは全部カルマ(業)の働きなのだが、これは釈尊の発見されたもので、一般の人には分からない。そういう働きがあるということに気付いただけで大したものである(私が偉そうに言っているのではなく、釈尊しか業は発見できなかったのだから、こう結論付けても宜(むべ)なるかなと思ってください)。

 

 

もともと人間に限らず、生命全体を考えて、「幸せとは何か」というのが、釈尊が修行する契機でありテーマであり、結果として釈尊は苦(一切皆苦)を発見され、そして涅槃という解脱の世界を発見されたわけで、こうした研究がどれだけ進んでも、輪廻の中にいる限り、苦からの解放はありえない。また苦行をいくらこなしても、悟りには至らない。苦行して悟ったというのなら、それは錯誤である。私が言うのではなく、釈尊がそう仰っていますよ。

 

 

残念なことに禅定の楽を味わったことがないであろうから、この分野で人間の楽や幸せ(ハピネス)を研究しても、誰でも味わえるちっぽけな幸せについてしか、わかるまい。

 

こころを研究テーマにして、こころを清浄にすることに努めるならば、禅定や滅尽定を通して、すごいものが発見されるかもしれないが、それ(禅定や涅槃)がわかるかわからないかは、その研究者の資質によって左右されるだろう。

 

 

世間では快楽は五根(眼耳鼻舌身)から得られるものと決めつけているから、五蓋(ごがい=愛欲・瞋恚・昏沈睡眠・掉挙後悔・疑の五つ)がはずれた禅定の喜悦感は研究の外に置かれたままになるだろう。世間では幸福というものは、外部から得るものと考えているが、テーラワーダ仏教では、五蓋を取り除き、心の機能を無くしていき・・・というように、失うこと、捨てることによって、幸せになるのだから、世間と釈尊の教えは真逆そのものである。

 

 

ブータンが幸福度の高い国と言っても、それは"人間的な、あまりに人間的な”尺度による判断ではなかろうか?でもブータンは住みやすいだろうなと憧れます。

手に取るように過去を思い出す(宿命通)智慧

今世に関してではあるが、過去の出来事が、ありありと手に取るように思い出されてきた。それを経験した時以上にありありと思い出すことができる。ここに因果法則の智慧が組み合わさると、理屈の上ではどこまでも過去を思い出せそうな気がする。

 

 

今の段階ではインパクトの強い事象を、あたかも今経験しているかのように思い出せるのだが、なぜその行為を選択したかという事が、右足を踏み出したら次は左足を踏み出さねば進まぬように、どうあってもその行為を選択したのが因果法則上当然の行為の結果であると紐づけられれば、あとは芋づる式にあれよあれよと次から次へと行為が繋がってしまうはずなのである。

 

 

スマナサーラ長老の「沙門果経」では、炊きあがったご飯がある→炊飯器のスイッチを入れた→米と水をあわせた→乾いた米があった というように、あるいは靴を履いてから靴下を履くことができないように、靴下を履いてから靴を履くように、すべての物事は順番で起こる。我々はそれに気づいていないだけで、長老によると歩く時どこの横断歩道を渡るかも、きちんと理屈があって我々はそれを選択しているのである。ただ何となく渡っているように見える横断歩道ひとつとっても、自分はなぜそこの横断歩道を渡ったのか、きちんと順番があって(因果法則通りに)選んでいるのである。

 

 

「沙門果経」では今から思い起こして、一日の始めまで思い起こす訓練法が書かれている。因果関係を見るためには、ビデオテープの逆再生のように過去を順番で思い出す訓練をするそうである。

 

以下は引用です。

〝このようにして、心が、安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものになると、かれは、過去の生存を想起する智に心を傾注し、向けます。かれは、種々の過去における生存を、たとえば、一生でも、二生でも、三生でも、四生でも、五生でも、十生でも、二十生でも、三十生でも、四十生でも、五十生でも、百生でも、千生でも、十万生でも、また数多(あまた)の破壊の劫(こう)でも、数多の創造の劫でも、数多の破壊と創造の劫でも、つぎつぎ思い出します。「そこでは、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色(いろ)があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、あそこに生まれた。そこでもこれこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、ここに生まれ変わっているのである」と、このように具体的に、明瞭に、種々の過去における生存を、つぎつぎ思い出します。

それは、大王よ、たとえば、人が、自分の村から他の村へ行き、その村から自分の村へと戻って来て、「私は、自分の村からあの村へ行った。そこでは、このように立った。このように座った。このように語った。このように沈黙した。また、その村からかの村へ行った。そこでも、このように立った。このように座った。このように語った。このように沈黙した。そして私は、その村から自分の村へと戻って来ている」と、このように考えるようなものです。

 

 

 

禅定という快楽 —― 性的快楽をはるかに凌ぐ涅槃に次ぐ安楽 

「涅槃に次ぐ」などと題したが、涅槃は楽には楽だが、それは心の働かない楽、まず、サンカーラ(行)が働かないので、心には「~しよう、~せねば」という年中、生命を行動に駆り立てるあの強迫的な「~しないといけない(たとえば外へ出かければ、家へ帰らなければいけない、朝になったら目を覚まして顔を洗わなければならない)」という衝動が抜け落ち、ヴェーダナー(受)が働かないので、身体から痛みなどの不快や快(快という感覚もよくよく突き詰めると不快である)の感覚が一切脱落し、サンニャー(想)が働かないので、概念作用がなくなり、区別や分別作用が消えてなくなり、ひいてはヴィンニャーナ(識)という認識作用そのものがなくなってしまう。

 

 

これによって涅槃(ニルヴァーナ)の世界に入る。涅槃は語り得ない世界である。入った者にしかわからない。地水火風の存在しない世界。衝動も感覚も識別作用も認識もない世界。太陽も月も輝かない世界。マーラ(悪魔)の立ち入れない世界、などなど。

 

 

今わかったことだが、心も身体も機能停止した状態は、「心身脱落」の状態である。心も身体も抜け落ちてしまっている状態。してみると、道元禅師が入っていたのは滅尽定であり、涅槃の世界に入られていたのか。スマナサーラ長老が日本仏教で唯一相手にしているのが禅の世界で、曹洞宗であるのがうなずける。道元禅師はスマ長老曰く、「不還果です」というのも納得。なるほど。この状態が心身脱落か。道元禅師も涅槃を心身脱落としか例えようがないのか。ほかには記録がないので、心と身体を最初に止めた日本人は道元禅師ということになるだろう。めでたし、めでたし。

 

 

 

アジャパーラニグローダ 樹下での禅定から立ったお釈迦様は、ムチャリンダ 樹下に結跏趺坐してまた七日間 を過ごします。この とき、七日の間雨が降り続き、寒気と風に 見舞われました。そこでムチャリンダ 龍王ナーガラージャ)はその 体を七廻りさせ てお釈迦様の体を守り、大きな鎌首をあげて、お釈迦様の頭上を覆って雨風にさらされ ないように守りました。七日たって雨風が収まると、ムチャリンダ 龍王はとぐろを解い て人間の姿に化身し、合掌して帰依を表しつつ 世尊の前に立ちました。そのとき、お釈迦様は次のような偈(げ)を唱えたのです。「足るを知る者に、真理を体験している者に、遠離 (おんり)は楽しい。世間に対して瞋恚( 怒り)がないこと、生命を慈しむ ことは楽しい。この世で 無欲でいること、諸々の欲を超越 することは楽しい。『我が いる』という慢をなくすことは最上の楽しみである」   ムチャリンダ 樹下の 禅定から 立ったお釈迦様は、ラージャーヤタナ樹下に移動してまた七日間、結跏趺坐して解脱の 楽を享受していました。

 アルボムッレ・スマナサーラ. 日本人が知らないブッダの話 ― お釈迦さまの生涯の意外な真相 (スマナサーラ長老クラシックス) (Kindle の位置No.1300-1310). Evolving. Kindle 版.より引用

 

 

 

あえて譬(たと)えてみたが、これは心を止めないと得られないもので、心が止まると身体も止まってしまう(つまり世俗諦の現象世界にはもういない)。禅定も最初は第一・第二禅定くらいで止まっていたから、頭の中は湧き上がる雲と白い光がぐるぐると渦を巻き、体の中は喜びの分子が無数に爆発的に弾け飛んで、どの一秒一秒も幸せで幸せでならず(多幸感)、あまりの幸せゆえに「どんな敵であろうがおかまいない。みんな幸せになってしまえ!」と思わせるほどの落ち着きのないもの(喜びが爆発する感じ)であったが、だんだんこの分子が爆発的に弾け飛ぶのが収まっていき、第三・第四禅定になってくると、平安・やすらぎ・落ち着き・静けさの伴う心地よい秋の黄昏時の木陰で、あるいはレマン湖に浮かべたボートの上で横たわりながら、何の罪も犯していない心安らかな者が、ただ風に髪をなぶられながら、一人静かに日の落ちていく様を眺めるような、透き通った「落ち着きの楽」というか「静寂の楽」へと入っていく。

 

 

その禅定は三日間くらい解けない。ものすごく落ち着いて、じっと楽を愉しんでいる。それが解けた時が、性的快楽でも試してみようかなというひと時。しかしシコシコと何分か擦り上げ、液を出して終わりだから、涅槃や禅定と比べると、ばっちいし、喜びの劣化のほどは、はなはだしいものがある。

 

 

禅定に入らぬかぎり、人間の楽も、神々(六欲天の神々)の楽も、肉体から得られる快楽を超えられない。肉体にリミット(限定)されている。リミッターが切れた禅定の楽はすさまじい。涅槃はもう、たとえようがない(比較できない)ものである。仏教とは極めるところ、リミッターのない喜びの(苦のない)世界を求める心の旅である。

 

心を究極まで清らかにする。十悪を行わない。妄想を止めて、二度と妄想しない頭に変えてしまう。すなわち大脳新皮質が原始脳をコントロールする、そういう脳の回路の配線状態をつくりあげる。これによって現象世界=輪廻転生より解脱する。釈尊の発見された科学より超科学的な手法によって到達可能な世界。決して黙示録とか最後の審判という予言は成り立ちえない現実(現象)世界。複数の原因が複数の条件下でビシバシと当然の結果を出し続ける現象世界の無数の因と果が複雑な条件下で絡み合う、そこで予言を行うことはあり得ない。意志もまたパラメーターのひとつ。自由意志(free will)は存在しないが、運命と業とは異なる。意志の働きで未来は変わる。自由ではないが、変えられるのは意志であり、意志だけを人間はコントロールできる。だからカルマ(業)は意志ですと歴代の正等覚者は口をそろえて同じことを言う。彼らはすべて業果論者。釈尊ですら予言はしないし、できない。同じことは二度起こらない世界。

統合失調症・線維筋痛症・多重人格・・・心で解決しうる病 ②

線維筋痛症・・・私の場合、発端は右腕の肘(ひじ)の痛みであった。痛くて右を側臥位にして寝たり、寝がえりをうてない日々が始まる。手が持ち上がらなくなり、利き手が右のためシェーバーや洗顔、タオルなどが使えなくなり、苦労しはじめた。五十肩というものなのかと思ったが、肩ではなく肘が痛む。整形外科を受診し、痛み止めをもらい検査していただくが異常なし。帯状疱疹ができていないかなどチェックされる。

 

やがて左手の人差し指をライターか何かで熱せられたような痛み、胸を氷の刃かガラスの破片が通過するような激烈な痛みが発生し始める。これは五十肩ではないなとネットで症状から病名を推測する。同時にドクターショッピングが始まる。家の近くの整形外科を受診し、病状を告げ、詳細なレントゲン写真を撮る。診断がつかず、リリカカプセルなどを処方される。刃物で胸をチクチク刺されるような痛みも発生。痛む箇所が日によって変わり、転移するようになる。苦痛で顔を歪め始める。

 

漢方にも頼った。以前めまいがひどい時に漢方で完治したのを思い出し、漢方外来に足を運び、漢方を処方されるも、効かない。肩凝りを指摘されエビぞりを薦められるも、痛くてできなかった。

 

リリカカプセルが効かず、順天堂大学病院をお茶の水に尋ねたのはゴールデンウィーク前であった。レントゲンを撮ってもストレートネック以外に何も出てこない。肩凝りの体操の本をもらって帰った。

 

ぼちぼち線維筋痛症を自分で本気に疑い始める。ヤフーの知恵袋で質問しても、線維筋痛症だとの回答があったが、医師の診断名がおりない。順天堂は総合診療科にて血液検査なども行うが異常なし。これ以上何もできないので、来ないでくださいと言われる。

 

最初は右腕が上がらなかったのが、この頃は左腕をずっと上げていないと腕の納めどころがなく、肘から先を顔の前にたたんで、「ハイル・ヒトラー!」などと家人の前でおどけていたが(右手と左手が逆なのだけど)、何も治らないこと、病名がわからず先に進まないので、不安に押しつぶされそうな毎日であった。

 

痛みが半端なかったので、近くのペインクリニックを探すと、三鷹でヒットする。神経ブロック注射を首に行うが、効果なし。トラムセットを処方されるが、薬価の高さに驚く。ただし、これは効いた。その後三鷹にペインクリニックがなくなったので、武蔵境に開業した医者を頼りにする。そこで合成麻薬(フェントステープ2mg)を痛み止めとして使い始める。

 

以上が大まかな経過で、このあと慶應義塾大学病院でのMRI検査、血液検査などがあるのだが、結論からいうと、すべて異常なし。ここ(慶應)でも診断名がつかないので、その後医者に頼らずに「慈悲の瞑想」で治るのだが、もし「線維筋痛症」であったのならば、「慈悲の瞑想」は治療のひとつの手段であると思う。また以前にもその旨、お伝えしたかと思う。

 

肝心なのは、病の原因が心にあること、私の言うサブパーソナリティ(サブ人格)が身体に刺激を与え、その刺激がたとえようもない酷いもの(身体の血管を針が移動するとか、手足を火で炙られるとか)であるところのその原因は、サブ人格という心がつくっているのだということを忘れてはいけない。神経伝達は化学反応で起きると考えられているが、私の経験ではサブパーソナリティという心は、化学反応そのものをつくる。刺激を脳へと伝達するのは化学反応の力であり、脳がそれを感じ取り、心が痛みや心地よさ、甘い辛いなど瞬時に変換して味付けをする。心が味付けを行います。この部分をサブの人格が握ってしまうので、針が血管の中を移動したり、手足を炎で炙られたり、胸の中で小型の爆弾がぽんぽこ爆発するといった線維筋痛症のあのたとえがたい激烈な痛みは、まさに心がつくりだす痛みそのもの。本来あり得ない痛みの感覚である。

 

サブのこの人格は、何者か?それもまた、過去世で誰かのメインであったパーソナリティ(人格)です。ですからそれは、まったく第三者的な人格です。なぜこうしたメインと正反対の人格が、我々の心所が瞬間瞬間溶け込む心(チェータナー)から出来上がるのかと言えば、これは私の推論ですが、真逆のものの存在があって、はじめて「私」という本来無我の存在は、何とか生きていけるという事だからではないでしょうか?世界がブッシュ大統領一人だとうまくいくかわからない。ブッシュと真逆のウサマ・ビン・ラディンという存在もあっての世界ではないでしょうか?本当は私もよくわからないのです。では、このサブの人格も、人間という稀有な存在に生まれついた徳の高いものなのか?残念ながら人間に生まれてきて、その誕生をもたらした業(カルマ)はメインの人格のものです。つまり、人間として生まれてきたのはメインの人格だけのようです。サブの人格もメインと一緒にいろいろやります。それは、このサブの人格のカルマ(業)となって、次の転生先が決まっていきます。

 

 

この肉体を「私」というメイン人格のみならず、複数のサブ人格も同じ様に使っていることが分かると、「私の身体」という思いが薄れ、心と身体がはっきり分離する。「私」が寒いとは言わず、「身体」が寒い、「私」に熱があるのではなく、「身体」に熱があると、口をついて出てくるようになる。「心」と「身体」を完全に分離して捉えられるようになります。

 

これまでも「名色分離智」はわかっていたのかもしれないが、ようやくこの段階で、心がつくる身体というものが手に取るようにわかり出す。テーラワーダ仏教は、ここで自分の体の分身をいくつも作り、地面の中に潜り、水の上を歩き、壁や塀を通り抜け、空中に浮かび、太陽や月を触ってくる、梵天界に姿をあらわすなど諸々の神通力を語っている。やるかやらぬかは皆さん次第である。

 

そこを通り抜けると、三明(宿命通・天眼通・漏尽通)の世界が開ける。