馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

社会的事象(事件)に対するドストエフスキーの観察眼と法律に対するニーチェの箴言より

ドストエフスキー著『白痴』より抜粋(ロシアの自由主義者とロシア的自由主義者に関する遣り取りより)。
「それはまったく後悔もしないで人を殺すような、骨の髄まで悪のしみこんだ者でも、やはり自分が犯罪者であるということを知っているんですね。つまり、まるっきり後悔をしていないにしろ、自分の良心に照らして悪いことをしたと考えているんですよ。しかも、彼らのすべてがみなそうなんです。ところが、いまエヴゲーニ・パーヴルイチのおっしゃった人たちは、自分のことを犯罪者と考えようとしないばかりか、そうする権利があったのだ……いや、自分のしたことは善いことだ……と、まあ、そんなふうに考えているんですからねえ。つまり、この点にこそ恐ろしい相違があるのだと私は思います。それに、どうでしょう、これはみんな若い人たちなんですからねえ。あの年頃が最も思想の歪曲におちいりやすい危険な年齢なんですねえ」

ニーチェ著『権力への意志』より抜粋。
七四四
そうだ、法の哲学!これは、すべての道徳科学と同じく、いまだオムツにくるまってすらいない科学である!
たとえば、あいかわらず、おのれが自由だと考えている法律学者の間ですら、刑罰の最も古い最も価値ある刑罰の意義が見誤られている――全然この意義を知らないのである。だから法律学が新しい地盤のうえに、つまり歴史と民族の比較研究のうえに立てられないかぎり、今日「法の哲学」と考えられ、その全部が現代人から引きぬかれたところの、根本的に誤った抽象物についての無用の論争に終始するであろう。しかるにこの現代人はきわめて手のこんだ一つの織物であり、その法律的価値評価に関してもまたそうであるゆえ、このうえなく様々な解釈を許すのである。

七四五
或る古代のシナ人が言った、国家が没落にひんするとき、多くの法律がしかれるということを聞いたことがあると。
(シナという表記に関しては躊躇いを感じたが、敢えて原文に忠実にコピーしました)